ヤンキースの売却
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:10 UTC 版)
「1964年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ヤンキースの売却」の解説
この年8月にヤンキースのオーナーであるダン・トッピングとデル・ウェッブは球団を当時の三大テレビネットワークの一つであったCBSに売却した。売却の理由はヤンキースの人気低下と見られているが1961年に174万8,836人を数えた観客動員数が1964年には131万5,638人に減少し、しかもメッツがこの年に173万2,597人の観客動員数を記録して、いつも試合に勝つヤンキースよりもいつも試合に負けるメッツの方を判官びいきするニューヨークに見切りをつけたとも見られている。この突然のオーナー交代にはアスレチックスのオーナーチャールズ・フィンリーらが強い反発を示し、マスメディアが球団を持つことに他の新聞・雑誌からも批判が加えられた。しかしオーナー会議では8対2で認められたのでフィンリーらは法務省反トラスト局にこの問題を持ち込み上院反トラスト委員会(セラ委員長)も取り上げるところとなった。しかしこの頃になると上院反トラスト委員会はプロスポーツを全て反トラスト法の枠外に置く姿勢に変わり、この論議は深まらずに終わった。1945年にマクフェイルたちがヤンキースを買い取った時はスタジアムやファーム組織を含めて総額280万ドルであった。その後ヤンキースタジアムなどを1953年に650万ドルで売ったので、それ以外のヤンキースの資産をこの年に株式の80%に達する1,120万ドルをCBSは旧オーナーに支払い、しかも残り20%も支払う約束で総額約1,400万ドルでCBSが買い取ったと言われる(売却金額を1,100万ドル~1,300万ドルと記す資料が多い)。ヤンキースの評価は戦後の経済発展とともに異常に高くなっていた。 しかしCBSがヤンキースのオーナーであった1965年からヤンキースの低迷期で2年目にはリーグ最下位となり、その後も上位に食い込めず「暗黒時代」として記憶され、結局CBSは1973年1月にジョージ・スタインブレナーにヤンキースを売却し、スタインブレナーはヤンキースの再建に辣腕を振ることになった。
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ヤンキースの売却
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:09 UTC 版)
「1972年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ヤンキースの売却」の解説
1964年にCBSがヤンキースを買い取った時は、ヤンキースのリーグ4連覇の時であった。本来であればテレビ放映料や入場料収入で恵まれた安定収入で球団運営ができるはずであった。しかしちょうどこの時がヤンキース王朝の黄昏で有力選手の衰え、新人選手ドラフトの実施によって有望選手を思うように取れなくなり、ファーム組織も有効に機能せず、黒人選手を積極的に取らなかったこと等、様々な要因が重なってその後1966年には一気に最下位まで転落してその後も優勝争いからは縁遠いチームとなった。ボビー・マーサー、サーマン・マンソンらが育ち、この年は9月上旬まで首位争いをしたが息切れして79勝の東地区4位に終わった。ストライキもあって155試合しか消化できず、とうとう本拠地ヤンキースタジアムでの観客総動員数は第2次大戦後初めて100万人の大台を割り、ここに至ってCBSはヤンキース手放すことを決めた。 一方、父から継いだ造船業で巨万の富を築いたジョージ・スタインブレナーは前年にインディアンスの買収に動き860万ドルを提示して交渉したが成立しなかった。そのスタインブレナーに、インディアンスのゲイブ・ボールGMを通じてCBS副社長マイケル・パークがヤンキースの買収を持ちかけてきた。やがてヤンキースの再建に剛腕を振るい、金も出すが口も出して球界随一の名門球団を復活させ、そして混乱させ、20年間に20回も監督のクビが飛び、ビリー・マーチンを何度も監督に就任させては解任し、自身も不祥事で2度オーナー資格を停止されるなど常に話題に事欠かない破天荒な球団オーナーとなる人物が登場する。
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