ヤンキースの一塁手とは? わかりやすく解説

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ヤンキースの一塁手

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 03:59 UTC 版)

1925年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ヤンキースの一塁手」の解説

ニューヨーク・ヤンキース一塁ウォーリー・ピップ1915年から10年守ってきた。この10年本塁打王2度獲得し3割を3度打ち悪くても2割8分は打ち1921年から1923年までのリーグ3連覇にも貢献しチーム中核であったが、この年不振に喘いでいた。 ベーブ・ルース戦列戻った6月1日の対セネタース戦の8回に代打として登場した若い選手がいた。1903年生まれ22歳で、コロンビア大学中退し1923年ヤンキース契約してプロ入りした。入団して3年目1925年初めにヤンキース当時レッドソックスにいたフィル・トッド一塁手との交換トレード申し入れたが、レッドソックス断った。もしこの話が実現していれば後のドラマ生まれなかった。翌日6月2日正一塁手だったウォーリー・ピップ風邪を引いてミラー・ハギンス監督休場申し入れたため(頭痛及び試合前のケガ説、或いは最初からベンチ入らず遊び行ったという説がある)、監督前日代打出場した若い選手を6番1塁でスタメン登場させた。ウォーリー・ピップにとっては大事をとって休養しただけで、いつでも1塁には戻れると当然思っていたはずである。しかし彼は永久にヤンキース一塁に戻ることはなく、シーズン終了後シンシナティ・レッズトレードされた。そしてすっかり生彩欠き、この6月2日事実上の引退の日になってしまった。 この若い選手は、この試合で3安打しミラー・ハギンス監督にその才能認められて即レギュラー入り翌日からそのまま先発出場した。この年126試合出場打率.295・本塁打20本・打点68記録した。そしてそれから14年後の1939年4月30日まで試合に休むことなく出場し5月2日次の試合前に自身体調異変のため自らジョー・マッカーシー監督申し出て試合出場取り止めた代打出場した1925年6月1日から1939年4月30日まで通算2130試合連続出場記録残したこの選手こそ《ヤンキース誇り》と謳われベーブ・ルース獲得できなかった三冠王をも獲得し、その引退多く選手ファン忘れられない記憶として今も残るルー・ゲーリッグである。

※この「ヤンキースの一塁手」の解説は、「1925年のメジャーリーグベースボール」の解説の一部です。
「ヤンキースの一塁手」を含む「1925年のメジャーリーグベースボール」の記事については、「1925年のメジャーリーグベースボール」の概要を参照ください。

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