ヤンキースの一塁手
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「1925年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ヤンキースの一塁手」の解説
ニューヨーク・ヤンキースの一塁はウォーリー・ピップが1915年から10年間守ってきた。この10年で本塁打王を2度獲得し3割を3度打ち、悪くても2割8分は打ち、1921年から1923年までのリーグ3連覇にも貢献し、チームの中核であったが、この年は不振に喘いでいた。 ベーブ・ルースが戦列に戻った6月1日の対セネタース戦の8回に代打として登場した若い選手がいた。1903年生まれの22歳で、コロンビア大学を中退し1923年にヤンキースと契約してプロ入りした。入団して3年目の1925年初めにヤンキースが当時レッドソックスにいたフィル・トッド一塁手との交換トレードを申し入れたが、レッドソックスは断った。もしこの話が実現していれば後のドラマは生まれなかった。翌日6月2日に正一塁手だったウォーリー・ピップが風邪を引いてミラー・ハギンス監督に休場を申し入れたため(頭痛及び試合前のケガ説、或いは最初からベンチに入らず遊びに行ったという説がある)、監督は前日に代打出場した若い選手を6番1塁でスタメンに登場させた。ウォーリー・ピップにとっては大事をとって休養しただけで、いつでも1塁には戻れると当然思っていたはずである。しかし彼は永久にヤンキースの一塁に戻ることはなく、シーズン終了後にシンシナティ・レッズにトレードされた。そしてすっかり生彩を欠き、この6月2日は事実上の引退の日になってしまった。 この若い選手は、この試合で3安打してミラー・ハギンス監督にその才能が認められて即レギュラー入りし翌日からそのまま先発出場した。この年に126試合出場し打率.295・本塁打20本・打点68を記録した。そしてそれから14年後の1939年4月30日まで試合に休むことなく出場し、5月2日の次の試合前に自身の体調の異変のため自らジョー・マッカーシー監督に申し出て試合出場を取り止めた。代打で出場した1925年6月1日から1939年4月30日まで通算2130試合連続出場の記録を残したこの選手こそ《ヤンキースの誇り》と謳われ、ベーブ・ルースが獲得できなかった三冠王をも獲得し、その引退が多くの選手やファンに忘れられない記憶として今も残るルー・ゲーリッグである。
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