ヤンキースでの活躍
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「ルー・ゲーリッグ」の記事における「ヤンキースでの活躍」の解説
1923年の途中からヤンキースの一員となり、同年6月15日には代打としてメジャーデビューを果たす。最初の2年間は出場機会も限られており、1923年のワールドシリーズのメンバーには登録されなかった。当時の看板選手であるベーブ・ルースの直接指導の甲斐もあって1925年にはレギュラーに定着し、437打席で打率.295、20本塁打68打点を挙げた。 翌1926年に主力打者として大きく開花し、打率.313に47本の二塁打と、アメリカンリーグでトップの20三塁打、16本塁打、112打点を挙げた。セントルイス・カージナルスと対戦した同年のワールドシリーズでは打率.348で4打点を挙げるものの、ヤンキースは3勝4敗に終わり、世界一にはあと一歩届かなかった。この年、渡米していた日本のセミプロ野球チームの大毎野球団がヤンキースタジアムを訪れており、その際にゲーリッグを「偉大なる体格の持ち主であって打撃は将来恐るべきもので、第二のルースとの噂が高い」と記している。 1927年は記録的な年であった。打率.373、47本塁打175打点に218安打を挙げ、この年の一シーズン117長打はベーブ・ルースに次ぐ歴代2位であり、また447塁打も歴代3位の数字である。ルースとゲーリッグの二枚看板を中心とした強力打線は「マーダラーズ・ロウ(殺人打線)」と呼ばれ、この強力打線を武器にヤンキースは110勝44敗の成績を残し、ピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズも4連勝で制覇。この年のヤンキースがMLB歴代最強のチームだったとする評価も多い。シーズン60本塁打を放ったルースを差し置いて、ゲーリッグはア・リーグの年間MVPに選出された(ちなみにゲーリッグとルースの2人でこの年のア・リーグの全本塁打439本の1/4近くを叩き出している。また、この年のア・リーグの本塁打ランキングでルース、ゲーリッグに続いたのが18本のトニー・ラゼリであり、ゲーリッグがルースと並ぶ傑出した長打力の持ち主であることは間違いなかった)。 ルースの陰に隠れがちではあったが、ゲーリッグの得点能力は球史でも随一のものだった。本塁打王に3回、打点王に5回輝き、打率.350以上6回、150打点以上7回、100四球以上11回、200安打以上8回、そして40本塁打以上が5回もあった。1931年の184打点は未だに破られていないア・リーグ記録である。1934年には三冠王も獲得している。「アイアン・ホース」「静かなる英雄」と呼ばれ、陽気なルースに対して物静かなゲーリッグと好対照でよく比較された。 私生活では1933年9月にシカゴ・パークスの支配人フランク・ツイッチェルの娘エレノアと結婚している。のち、エレノア夫人はゲーリッグの晩年と最期を看取り、その時の回顧録を執筆している。
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