一進会の設立
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宋秉畯は、日露戦争のさなか、日韓議定書が締結された約半年後の1904年8月8日に独立協会系の尹始炳らと共に、政治結社一進会を設立する(当初、名称は「維新会」。8月20日に「一進会」に改名)。 その後、韓廷が進歩会に対し「法令に背いて集会し詔勅無くして断髪するのは乱民だから解散せよ、しなければ砲刑に処す」と訓令を発したため、一進会は進歩会に対し「怨みがあれば訴え、訴えるのに会するのは自然の理である。また、乙未削髪詔勅(断髪令)は未だ取り消されておらず、軍人や警察官や外交官の断髪は詔勅によるものではない。現在の惨状を座視するのは忍びないから、現政府に従うな」と助言を発した。進歩会は一進会に対し主義目的が同じだとして合併を依頼し、中央の一進会は十三道の進歩会を吸収した。ちなみに同年8月22日には第一次日韓協約が締結されている。 当初、尹始炳が会長であったが、尹の要請によって李容九が会長に就任した。 他にも、初代統監であった伊藤博文が、黒龍会主幹を務めていた内田良平と共謀し、「韓国から日本との合邦を提議させるために」、一進会を設立させたという見方もある。しかし、陸軍側の資料である「魚潭少将回顧録」によれば、一進会は、帝国陸軍韓国駐剳軍と統監府の対立の中で、韓国駐剳軍が統監府及び伊藤博文統監を間接的に攻撃するために設立させたものであり、その後、一進会が内田良平を通じて統監側に近づいたとしている。
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