2度の全日本制覇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 00:25 UTC 版)
「金野潤 (柔道)」の記事における「2度の全日本制覇」の解説
6畳一間のアパートで独り逆風に耐える金野だったが、勤め先である綜合警備保障の上司夫妻など周囲から励ましされた事がきっかけとなりドン底から這い上がる決意をする。また1992年の全日本選手権後に長期休養した際に目にした剣術書の“刀剣短くんば前に出よ”の言葉に感銘を受け、重量級では比較的小柄な金野なりの勝ち方を研究して勝敗に徹する試合運びを創意工夫した。 迎えた1994年のまだ講道館柔道試合審判規定で実施されていた全日本選手権では、準決勝で小川を破った吉田秀彦との決勝戦で、自身より遥かに軽量の吉田に対して金野は蟹挟を仕掛け、これにより吉田は膝を負傷。金野はさらにケンカ四つの立ち姿勢から腕挫腋固をかけて吉田の肘関節を負傷(これにより釣手を痛めた吉田はこの試合で得意技の内股が殆ど出なくなった)させると吉田が蟹挟をやり返した。金野も2発目・3発目の蟹挟を掛けるなどした。この試合中に気迫溢れる両者が睨み合いとなり武道館内を騒然とさせたシーンは、全日本選手権史の名勝負として多くの人々の記憶に残る。結果は旗判定により、金野が悲願の初優勝を飾った。なお、後日雑誌のインタビューにて金野は、「あの時の吉田君は凄かった。パワーも重量級と互角で、技のキレも抜群。内股を受けた時には背中に寒気が走った。」「あの時は館内の99%が吉田君の応援で、(自分の)優勝を喜んでくれたのは日大関係者だけだった。」と述懐している。また、試合後には全国の柔道ファンから抗議の手紙も多く届いたようだ。 1997年大会では、絶対王者・小川の引退後という事もあり、大会パンフレットでも『柔道、新時代』と銘打つなど篠原信一、真喜志慶治ら若手の活躍が注目された。しかし、1988年より10年連続10回目の出場を迎えた30歳の金野が中村佳央や三谷浩一郎、増地克之ら強豪を下し、決勝戦では天理大学学生の村元辰寛を破って自身2度目の優勝を果たした。大会後の雑誌インタビューで「旧石器時代に引き戻してしまいました」と金野。同大会で30歳代での優勝は、1974年の佐藤宣践以来、実に23年振りの快挙であった。 結局、全日本選手権には、引退までに当時史上最多となる12度の出場を数えた。
※この「2度の全日本制覇」の解説は、「金野潤 (柔道)」の解説の一部です。
「2度の全日本制覇」を含む「金野潤 (柔道)」の記事については、「金野潤 (柔道)」の概要を参照ください。
- 2度の全日本制覇のページへのリンク