2度の戦争と復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 05:52 UTC 版)
1917年に勃発した賃上げを求める運転士のストライキや幾つかの事故、そして第一次世界大戦下の厳しい財政状況による輸送力不足はあったものの、コシツェ市電は多数の乗客によって利用された。電化当初は3つの系統で運行していたが、1924年にはGajdovým方面の路線が開通し、系統も4本に増やされた。だが、1930年代の金融危機によりコシツェ電気鉄道は財政赤字に陥り、1936年に市電はコシツェ市によって運営される公営路線となった。1938年にコシツェ市を含む地域がナチス・ドイツに友好的であったハンガリーに割譲され、第二次世界大戦期にはユダヤ人を収容する強制収容所までの路線も建設されていた。やがてコシツェ市は空爆の対象となり、更に撤退するドイツ軍により工場や架線が破壊されたほか多くの車両が強奪され、コシツェ市電は運行不能の状態に陥った。これらの復旧が始まったのは、ソビエト連邦軍によってドイツ占領下から解放された1945年以降となった。 その後、政変によりチェコスロバキアが社会主義国家(東側諸国)になった事で、市電を含めたコシツェ市の公共交通機関は市営企業であるDZMK(Dopravné závody mesta Košice)に移管され、それまで直流800 Vだった架線の電圧が600 Vに変更された。社名については2度の変更を経て、1959年以降はコシツェ市輸送会社(Dopravný podnik mesta Košíc、DPMK)となっている。
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