2度の政局の変転と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/07 07:10 UTC 版)
しかし、永正4年(1507年)に細川政元が暗殺され、翌年に大内義興・細川高国によって擁立された足利義稙(義材)が上洛して将軍に復帰する(永正の錯乱)。反大内であった元信は政治的な力を失い若狭に退き、永正16年(1519年)に形式上、家督を子の元光に譲り出家する。 その後の大永元年(1521年)3月に細川高国と対立した足利義稙が出奔して、7月に義澄の子・義晴が新将軍になると、高国と和解した元信は8月に再び上洛して復権を果たした。 10月4日、禁裏御所の修理費5000疋を朝廷に献上し、功労により同月22日に守護としては異例の従三位に昇叙した。同年12月3日に死去。法名は仏国寺殿青光禄大丈夫三品大雄紹公大禅定門。墓所は福井県小浜市の仏国寺。
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