現役引退〜晩年
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大関昇進後は、1932年10月場所に9勝2敗の好成績で2度目の幕内最高優勝を遂げた。この頃の清水川は、後に横綱へ昇進する玉錦三右エ門とほぼ互角に渡り合っており、この場所の優勝も玉錦に競り勝ってのものだった。1934年5月場所で3度目の幕内最高優勝を11戦全勝で飾り、清水川の横綱昇進も間近と大いに期待されたが、同年9月の島根での巡業中に右の大腿骨を脱臼する重傷を負った。本人は復帰は絶望と見て現役引退も考えたものの、人気の高さから相撲協会に懇願されて翻意した。ただ、脱臼の影響で上手投げが満足に打てなくなるなど以前のような取り口とは程遠く、寄り身を覚えて衰えを補おうとする試みも裏目に出て1936年1月場所では4勝7敗と皆勤負け越しを記録したことすらあった。結局、1937年5月場所を最後に現役を引退したが、前場所を10勝3敗と大きく勝ち越していたため、引退表明後に協会から「もう一場所勤務して欲しい」と再度慰留されて今度は固辞した。横綱昇進は果たせなかったものの、人気と実力を兼ね備えて相撲協会に多大な貢献をした清水川は名大関と称えられた。 現役引退後は年寄・追手風を襲名すると同時に、二十山部屋から分家・独立して追手風部屋を創立し清水川明於などを育成した。1964年11月場所を最後に部屋を閉鎖して立浪部屋(元横綱・羽黒山政司)に合流し、1965年1月12日を持って日本相撲協会を停年退職した。1967年7月5日に死去、67歳没。
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