現役引退まで
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「相原昇 (バレーボール)」の記事における「現役引退まで」の解説
東京都品川区出身。寿司屋を営む両親のもとで次男として生まれた。昇が小学5年の時に両親が離婚し、女手一つで育てられた。品川区立荏原第二中学校に進学し、バレー部に入部する。監督の菊池実に師事し、菊池が目黒区立第四中学校に転勤する際には、相原も転校して、菊池の指導を受けた。相原は全日本中学選抜メンバーに選出されると、中学選抜メンバーで台湾遠征した試合ではベストスパイカーに選出されている[要出典]。バレーボール強豪校である東洋高等学校時代に進学すると、チーム主将でエース兼セッターとして、第16回全国高等学校バレーボール選抜優勝大会などで活躍した。 大学は日本体育大学に進学し、最高学年の4年生のときに初レギュラーを獲得し、春秋の関東大学1部リーグではレシーブ賞を獲得した。 4年生最後と大会となる全日本バレーボール大学男女選手権大会が近づいた1990年10月にバレーボール部の中田茂部長が急逝したが、準決勝戦でフルセットの末に法政大学に勝利して決勝進出を決め、東海大学との決勝戦は3-1で勝利するとともに、自らもレシーブ賞を獲得した。なお、同大会女子大会においても日体大が優勝し、アベック優勝を果たしている。卒業後は指導者としての活動を選び、1993年に開催される東四国国体の開催県である香川県が、バレーボール競技成人6人制種目では香川教員クラブを強化チームに指定し、教員選手の強化、補強に力を注いでいることから。香川県に教員採用されて香川教員クラブ所属となった。当時の同クラブは相原と麓哲哉(元神戸製鋼排球団所属、後に香川県立高松工芸高等学校バレーボール部監督)を核とするチームで、1993年の国体本大会6人制成人男子種目では香川県勢では史上初となる3位入賞を果たした。また全日本6人制バレーボールクラブカップ選手権大会においては、1992年に準優勝、1994年優勝を果たしてチームは解散し、相原も現役にピリオドを打った。
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現役引退まで
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ロサンゼルスオリンピック後、お見合いをし、中村の反対はあったが結婚に踏み切る。しかし、1985年4月に中山竹通がワールドカップマラソンで瀬古の持つ日本最高記録を更新、直後の5月に中村が趣味の川釣り中に急逝し、瀬古を取り巻く環境は激変する。 瀬古はオリンピック後のマラソン出場については慎重な姿勢を続け、1986年のロンドンマラソンで1年8ヶ月ぶりにフルマラソンを走り優勝する。同年10月のシカゴマラソンでは85年広島、87年ソウルのワールドカップマラソンに連覇することになるアーメド・サラ(ジブチ)を振り切り2時間8分27秒の自己ベスト(当時日本歴代4位、世界歴代10位)で優勝。 翌1987年4月、ボストンマラソンに3度目の出場。このレースには前年優勝で2時間7分51秒の大会記録保持者ロバート・ド・キャステラ(オーストラリア)、世界歴代2位2時間7分13秒の自己ベストを持つ元世界記録保持者スティーブ・ジョーンズ(英国)、ロス五輪男子マラソン銀メダリストでトラック競技でもスピードランナーのジョン・トレーシー(アイルランド)、ロス五輪6位で2時間8分10秒の自己ベストを持つジュマ・イカンガーらも出場し、豪華な顔ぶれとなったことから「世界一決定レース」などと謳われた。レースは強豪ランナー同士の牽制によりスローな展開となるも、心臓破りの丘で瀬古が抜け出し2度目の優勝を果たす。当時世界最強とみなされていたジョーンズは「瀬古はグレート。世界ナンバーワンだ。」とコメントした。 これら3つのレースの優勝で、失意のロサンゼルスの惨敗から立ち直った。とはいえ、ロス五輪以降は、従来のレーススタイルを捨てて、中盤に機を見てスパートして最後まで逃げ切るようなレース運びをするようになり、中村がいた頃とは変化もうかがえた。また、出場したレースはいずれも日本陸上競技連盟が解禁したばかりの「賞金レース」で、瀬古はその出場第一号であった。1986年10月のアジア競技大会のマラソンに出場した中山竹通は、遠回しな表現ながら瀬古に対する優遇ではないかと疑問を呈した。これがその後のソウルオリンピック代表選考を巡る紛糾の一端となったことも否定できない。結果として1987年のボストンマラソンが瀬古の競技人生として最後の輝きとなった。 そのソウルオリンピックには、陸連の強化指定選手が出場を半ば義務づけられた五輪代表選考会となっていた1987年の福岡国際マラソンを負傷のため欠場。マスメディアでは、ライバルの中山が「這ってでも出てこい!」と発言したと煽られた(中山竹通#ソウル五輪代表選考での発言を参照)。翌年3月に選考レースのひとつであるびわ湖毎日マラソンに優勝して代表となるも、優勝タイムは平凡な記録に終わる。この代表選出については、瀬古に対する救済策ではないかという意見が当時多く出された。この代表選考の不透明さは瀬古の責任ではないが、その代表例として名を出されることは名ランナー瀬古の履歴に影を落とすことになった(代表選考に関する話題は松野明美・小掛照二の項目も参照のこと)。本番のレースでは9位となり、ついに五輪では入賞することなく終わる。ソウルオリンピック後、第1回国際千葉駅伝で日本チームのアンカーを務め、これを最後に現役を引退した。レース後、千葉県総合運動場陸上競技場で引退セレモニーが行われ、ライバルだった中山や宗から花束が贈られた。
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