大関時代・念願の幕内初優勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 04:10 UTC 版)
「霧島一博」の記事における「大関時代・念願の幕内初優勝」の解説
新大関の5月場所では初日から8連勝するも、後半に大きく崩れて9勝6敗に終わる。7月場所では7日目の安芸ノ島戦で勝ちながらも、左大腿筋筋膜一部断裂の疑いで途中休場。初の大関角番だった9月場所では13日目に新横綱旭富士の連勝を24で止め、旭富士、北勝海の両横綱と優勝を争い13勝2敗の好成績を挙げ見事復活。11月場所では序盤で連敗するなど10勝5敗に終わるが、この場所優勝の横綱千代の富士に黒星をつけた。 翌年1991年(平成3年)1月場所では、3日目に安芸ノ島に敗れたものの、1敗を保持して単独トップで千秋楽へ。そして千秋楽では横綱北勝海を得意の吊り出しで下して14勝1敗(当時の3横綱撃破)、ついに自身念願の幕内初優勝を果たした。なお初土俵から96場所目、及び31歳9か月での幕内初優勝は当時年6場所制のもとでの1位のスロー最長記録だった(現在の1位は、初土俵から121場所及び37歳8ヶ月で幕内初優勝の旭天鵬(旭天鵬は優勝制度発足後の最長でもある)。2位は102場所目及び32歳5か月で幕内初優勝の貴闘力で、霧島は現在共に6場所制での3位)。 翌3月場所は初の綱取りとなったが、1月場所の優勝祝賀会など相撲以外の行事への出席による稽古不足や綱とりに対するプレッシャーにより、翌3月場所は5勝10敗とまさかの大敗に終わり、綱の夢は果せなかった。その後夏場所から九州場所にかけては二桁勝利を重ね、62勝28敗で幕内での年間最多勝を初めて獲得したが、これは当時年6場所制での最少記録であった(現在は史上5位、2019年・朝乃山の55勝35敗が年6場所制での最少記録)。また年間最多勝に輝いた力士の中で、最高位が大関で引退したのは霧島と若嶋津の2人のみ(他現役力士で最高位・大関では、栃ノ心・朝乃山・貴景勝が年間最多勝を受賞)だが、奇しくも霧島と若嶋津は初土俵が同じ1975年3月場所で、二人共に同郷の鹿児島県出身であった(但し学年は霧島が3年下となる)。 1991年5月場所に横綱千代の富士、7月場所に大乃国が引退し、旭富士・北勝海の両横綱が休場が続く中、霧島は最大のライバルだった小錦と共に横綱昇進を争っていたが、翌1992年(平成4年)から肘の故障等に苦しむようになる。3月場所と7月場所は小錦らと終盤まで優勝争いに加わる活躍を見せたが、9月場所では7勝4敗から終盤3連敗の後、勝ち越しをかけた小錦との楽日対決に敗れ、7勝8敗と負け越して4度目の大関角番へ。肘の怪我でほとんど握力の無いまま挑んだ翌11月場所は、初日から4連敗が続くなど精彩を欠き、更に7日目の関脇水戸泉戦で右足首の靱帯断裂の大怪我により途中休場、2場所連続負け越しにより16場所守った大関から関脇へ陥落が決まった。 前述の通り千代の富士、大乃国の引退を境に、旭富士も1992年1月場所で、北勝海も同年5月場所前に立て続けで引退し、横綱が空位となってしまったため大関以上では霧島が唯一の日本出身の力士だった(他大関は共にハワイ出身の小錦と後に横綱となる曙)。しかし11月場所で霧島の関脇転落決定により、1993年(平成5年)1月場所では日本人の横綱・大関が不在となってしまった(いわゆる「ウィンブルドン現象」とも言われる)。それでも同1月場所後に貴乃花(当時・貴ノ花)が大関に昇進したため、日本人不在は1場所で解消した(それから18年後の2011年(平成23年)9月場所、前7月場所で魁皇の引退で大関以上に日本出身力士が消えたが、同9月場所後に琴奨菊の新大関が決まり、これも1場所で終わった)。陥落前の力が落ちてきた時期の霧島の相撲には、三杉里を網打ちで倒したり、貴乃花(当時・貴花田)を内掛けで下すなど、技を活かしたものが多かった。
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