大関氏継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/31 02:01 UTC 版)
ところが、天正15年(1587年)に清増が急死したため、父・高増の要請を受けて大関氏に復帰、義重の支援を受けて大関氏の家督を継承した。 天正17年(1589年)10月、伊達政宗が岩城常隆と共謀して白河を侵した時には惣無事令違反とは知りつつも、佐竹家と豊臣秀吉が懇意であった事と、先に仕掛けたのは伊達・岩城勢であるという事から罪には問われ無いと判断し、那須氏は佐竹軍に加勢し那須資晴など950人が出撃した。この時、晴増はこの先鋒として戦い、伊達・岩城勢を退けるなど軍功を示した。この時義重は旧縁から、晴増に「行方に5万石を与えるので臣下にならないか」と誘ったが、晴増にはいずれ独立した大名になりたいという野心があったのでこれを固辞したという逸話が残っている。
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