大関陥落〜引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 06:29 UTC 版)
しかし1984年3月場所からは3場所連続で1桁勝ち星が続いてからは、調子が下降線をたどり始める。1984年9月場所千秋楽、最後まで多賀竜と平幕優勝を争った小錦に対して、2分を超える大相撲の末勝利し4場所ぶりの2桁勝利となる10勝5敗。翌11月場所も10勝を挙げたが、これが自身最後の2桁勝利となった。 1985年1月場所では、7勝7敗で迎えた千秋楽で大関朝潮を下して8勝7敗とようやく勝ち越し。だが翌3月場所、6日目まで5勝1敗と好調も7日目から千秋楽まで9連敗を喫し、5勝10敗で自身初の大関皆勤負け越しとなる。これで平幕時代の1981年1月場所から続いた連続勝ち越し記録も25場所でストップした。初の大関角番で迎えた翌5月場所では、6日目の大錦戦で敗れた際、右膝外側側副靱帯損傷・右腓骨頭剥離骨折により翌7日目から途中休場、2場所連続負け越しで大関陥落が決まってしまう。 関脇に下がった7月場所は公傷全休。さらに9月場所もけがの回復が遅れ全休、10勝以上で大関特例復帰だったがそのチャンスも失った。11月場所では東前頭10枚目まで番付が降下。この場所再起を掛けて土俵に上がるも、初日三杉磯、2日目霧島、3日目寺尾と3連敗して引退を発表。たび重なる左ひざの大ケガを乗り越えてきた琴風だったが、結果的に良かったほうの右ひざまで故障してしまったのが致命傷となり28歳の若さで引退となった。
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