美術大学受験予備校
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一部の美大(東京工芸大学、多摩美術大学など)では一般入学試験出願において「高等学校等コード表」のほかアンケート用に「予備校・美術研究所等コード表」を作成しており、これによって全国の予備校・美術研究所等が示されている。以下が該当する予備校の例である。 礒貝文子絵画教室天王寺美術学院 トーリン美術予備校 東京武蔵野美術学院 美大受験予備校KIKUNAアトリエ 横浜美術学院ドルチェ美術研究所 アトリエ新松戸 埼玉美術学院 湘南美術学院 仙台美術予備校 大阪美術研究所 ASAKAアートスクール KILALA美術学院 専門学校中の島美術学院 新宿美術学院 美術研究所画塾 アトリエエム 九州美術ゼミナール 千葉美術予備校 福岡美術学院 宇都宮メディアアーツ専門学校美大受験科 美術予備校/美大予備校は、美術大学の実技受験指導に特化した教育機関として知られる。『日本近現代美術史事典』(多木浩二,藤枝晃雄/監修、東京書籍, 2007年 ISBN:978-4-487-73335-4)で荒木槙也の著述による 17【美術教育】「美術学校・大学の予備校」によると、日本の有名な美術大学は入試倍率が高く、受験には高度な実技能力が求められるため、予備校が日本の美術教育で果たした役割は非常に大きいとし、また受験生も講師や仲間の受験生と一丸となって受験に励むことから、社会的紐帯をはぐくむ場、友人関係を形成する場としての意義も非常に大きいとし、さらには曲りなりにもデッサン技術という美術の基礎を学ぶ場としての実績は過小評価されるべきではないとし、また多くの美術家が学生時代にこうした予備校の講師となって生計を立てていた事実を考慮すると、美術予備校は教育の単なる一段階を越えて、美術界全体に深く関わる存在意義も非常に大きいとされる。 これらの前身は黎明期の洋画家が経営する西洋画の初歩を指導していた個人の画塾であるとし、東京芸術大学美術学部である東京美術学校の設立前から存在していたとされる。そして1896年に東京美術学校に西洋画科が設立されると、画塾が受験対策を開始して受験予備校としての性格を強めた。早くから美術学校の予備校としての機能を明確にしたのは1891年に設立した美術講習所(共立美術学館)であり、狩野友信、広川栄三郎らが指導した。また、『東京藝術大学百年史:美術学校篇』(ぎょうせい)によると、美術学校の教授たちも美術研究所と呼ばれる予備教育施設の経営に積極的に乗り出していったという。こうした美術研究所も多くの若い画学生を集め、美術予備教育の場に加え、受験勉強の場としての発展を遂げた。 第二次大戦期にはこれらの予備校は閉鎖されたが、戦後の1945年に三輪孝が阿佐ヶ谷美術学園洋画研究所(現・阿佐ヶ谷美術専門学校)を設立した。1953年、北海道に札幌美術学園が創立され、1956年に高澤節が美術研究所「すいどーばた洋画会」を設立した。これは1965年にすいどーばた美術学院に発展する。すいどーばた美術学院は海外美術留学コースも設置したが、2017年4月より姉妹校の創形美術学校のコースに移行した。1958年、御茶の水美術学院などのデザイナーやアーティストだけでなく、芸能人の卒業生もいる老舗の予備校も誕生した。こうして美術予備校が新しく登場し、東京芸術大学が開学すると合格者数を競うようになった。 1960年代に美大受験生の数が急増。芸術大学・美術大学受験教育を行うアトリエとして発足する美術研究所も多くみられた。一例として1960年に広島的場町にて松本真美術研究所などは各種学校のひろしま美術研究所からさらに芸術大学・美術大学受験教育部門をひろしま美大芸大予備校と改めている。この時期に発足した予備校には首都圏ではふなばし美術学院(1967年、旧・船橋美術研究所)や本郷美術学院(旧・ほんごーアトリエ、1967年)、立川美術学院(旧・立川現代美術研究所、1969年)などがある。 都下においても美術予備校の台頭は著しく、神奈川県においては戦前の画塾が美術予備校へと形を変えることになる県内最大の美術予備校、湘南美術学院(旧金沢アトリエ)を筆頭に、KIKUNAアトリエ、横浜美術学院(旧アカデミー美術研究所)、鎌倉美術研究所(現在閉鎖)、代々木ゼミナール横浜アトリエ(現在閉鎖)などその後の90年代美術予備校ピークに向け、絵画教室レベルの個人塾を併せると大小様々な美術予備校が増えていくこととなった。 1962年、代々木ゼミナールがデッサン科を設置。1980年に代々木ゼミナール造形学校として発展。また河合塾は1970年に河合塾美術研究所を設立し、美大受験教育は一段産業に成長していく。 上記の著述で荒木は有名美術大学、特に東京藝術大学の入試倍率は戦前の美校時代から今に至るまで非常に高く、その例として絵画科油画専攻の倍率は1967年以降には30倍から45倍の間で推移していることを指摘。このため多くの受験生が浪人を強いられており、予備校の講師は頻繁に講評や面接を行うことで受験テクニックの指導から精神的なサポートまでを行っているとしている。また指導方法は予備校によってさまざまであるが大手予備校には受験に関する情報が多く集まり、また基礎的なデッサン技術から個性的な絵の描き方までを体系的に指導するノウハウが存在し、したがって大手と中小予備校との間で指導能力に大きな差が生じて有名大学の合格者を大手が独占し必然的に翌年の受験生が大手に集中するという社会構造の再生産性が成立しているとしている。さらにこれら予備校が芸大や一流美大の合格者数を競うことが大学間の序列を発生させ、結果として大学の権威を支えてきた一面もあるとしている。 こうした影響から荒木は、美術予備校の教育内容は現代の美術教育史を通じて議論の的であったとしており、高倍率の芸大・美大入試に対応するため、予備校は短期間に受験生を芸術家に仕立て上げる効率的かつ表層的な受験テクニックを教育しているにすぎなく、特に大学の試験時間に合わせた早描きの技術や目立つことを目的とした奇抜表現を多用するという傾向から「受験絵画」と呼ばれる独特の様式を生み出し、受験生の表現を画一化して創造性を妨げる要因として強く批判されてきたという。 このため、野見山暁治は『藝術新潮』38巻10号、「芸大入試はどうあるべきか “石膏デッサン”の功罪」1987年によると、1973年に野見山自身が芸大入試改革を試みたが、技術偏重の入試システムは大きく改善されなかったという。 しかし、荒木は美術大学が学生らを一人前の芸術家として扱って実技指導を積極的に行なっていないという現状がある一方で予備校はデッサンや彩画などの実技の基礎技術を学べる場として、その存在を評価する声もあるとしている。荒木は1994年頃から受験生の増加がピークを迎えて少子化の影響で減少傾向にある美大受験生数から経営難に陥る予備校も1990年代後半から現れ始め、2000年前後から業界再編の動きが加速しているとしている。
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