ひろしま
(ヒロシマ)土門拳の写真集。広島の町や原爆被害者たちを捉えたもの。昭和33年(1958)に刊行され、国内だけでなく海外でも話題となる。第4回毎日写真賞、第2回日本写真批評家協会作家賞を受賞。昭和35年(1960)には東ベルリンの国際報道写真展で金賞を受賞した。
(HIROSHIMA)小田実の長編小説。昭和56年(1981)刊。太平洋戦争で捕虜となり、広島で被爆した米国人を主人公に、加害・被害の交錯する現代史の闇を描く。英訳もされ、昭和63年(1988)アジア‐アフリカ作家会議のロータス賞を受賞。
ひろしま【広島】
ひろしま
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ひろしま | |
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監督 | 関川秀雄 |
脚本 | 八木保太郎 |
製作 | 菊地武雄、伊藤武郎 |
出演者 | 岡田英次、月丘夢路、加藤嘉 |
音楽 | 伊福部昭 |
撮影 | 中尾駿一郎、浦島進 |
編集 | 河野秋和 |
配給 | 北星映画 |
公開 | ![]() |
上映時間 | 104分 |
製作国 | ![]() |
言語 | 日本語 |
製作費 | 2400万円 |
『ひろしま』は、日本教職員組合(日教組)制作[1][2][3]、関川秀雄監督による1953年(昭和28年)公開の日本映画[4][5][6][7][8]。白黒映画。
太平洋戦争末期の広島市への原子爆弾投下で被爆した子供たちの手記集『原爆の子〜広島の少年少女のうったえ』を原作としている[9]。原爆の記憶が生々しい時代に広島市が街をあげて、製作に協力し[4][7][10]、広島市民約8万8,000人がエキストラとして参加した日本映画史上空前の規模の作品としても有名[2][4][3][7][10]。二度と作れない映画とも評価され[7]、大物俳優もその情熱に応えたといわれる[7][10]。
1955年(昭和30年)に第5回ベルリン国際映画祭長編映画賞を受賞した[2][10][11]。
概要

長田新が編纂した『原爆の子〜広島の少年少女のうったえ』(岩波書店、1951年〈昭和26年〉)を八木保太郎が脚色した。同じ原作を元にした作品として新藤兼人監督・脚本の『原爆の子』がある。当初、日教組と新藤の協力で映画制作が検討されたが、新藤の脚本は原作をドラマ風にかきかえてしまっていて原爆の真実の姿が伝わらないという理由で、日教組が反発。結局両者は決裂し、別々に映画を制作した[12]。
原爆投下直後の広島の惨状をリアルに再現しようと日教組に参加する広島県教職員組合と広島市民のカンパで製作費を集め[10]、全面的協力の下で制作された[10]。原爆投下を直接経験した者も少なくない広島市の中学・高校生、教職員、一般市民等約8万8,500人が手弁当のエキストラとして参加し[4]、逃げまどう被爆者の群集シーンに迫力を醸し出している。また、広島市役所、日本労働組合総評議会(総評)とその県組織の広島県労働組合会議(広島県労会議)、原爆の子友の会、原爆被害者の会の他に、地元企業である広島電鉄、藤田組(現・フジタ)も協力した。映画に必要な戦時中の服装や防毒マスク、鉄カブト等は、広島県下の各市町村の住民から約4,000点が寄せられた[3]。原爆投下前後の広島の再現のために現地での撮影場所は、広島市内外で24ヶ所[3]、シークエンスは168[3]に達した。
監督の関川秀雄は映画制作の7年前に広島に原爆が投下された直後の地獄絵図の映像化に精力を注ぎ、百数カットに及ぶ撮影を費やして、克明に阿鼻叫喚の原爆被災現場における救援所や太田川の惨状などの修羅場を再現した。そして被爆者たちのその後の苦しみを描いた[4]。
スタッフには、安恵重遠のような録音のベテランがおり、その後、独立プロ、教育・記録映画を支える小松浩、河野秋和が撮影や編集を担当。美術を後に『砂の女』を担当する平川透徹、セットデザインを怪獣映画の造形で知られるようになる高山良策が担当している。関川監督をその後脚本家として活躍する小林太平が補佐し、信州大学文理学部を卒業したばかりの熊井啓が助監督の一人として就いた[10]。
あらすじ
戦後数年が経った広島市。ある高校の1クラスで授業中に、生徒の大庭みち子が白血病により鼻血を出して倒れる。戦後広島にやってきた担任の北川は「この中に被爆した者はいるか?』と問い、クラスの三分の一が手を挙げた。原爆が投下された1945年(昭和20年)8月6日の当日、彼らは小学生だった。残酷な惨状、地獄絵がそれぞれの胸に甦る。北川は今まで原爆のことを知ろうとしなかったことを謝罪すると、生徒からは「原爆のことを世界の人に知ってほしい」との声があがる。病床のみち子は『軍艦マーチ』が鳴り響く原爆投下前の広島を想起する[3][13]。
出演者



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- 町子・みち子姉妹と明男の母。自宅で被爆し、爆風で崩れた家から必死で這い出す。重傷を負いながらもみち子と明男を連れて救護所へ避難するが、次第に原爆症の症状を現して衰弱しみち子の前で絶命する。
- 北川先生:岡田英次
- 遠藤秀雄:加藤嘉
- 米原先生:月丘夢路
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- 町子の通う女学校の教師、8月6日当日、生徒を引率し市内の建物疎開作業にあたっていた時に被爆する。生き残った生徒たちを安全な場所に避難させようとして川に入るが、流れにまかれて生徒とともに力尽きる。
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- 秀雄の妻で一郎、幸夫、洋子の母。爆風で倒れてきた梁に挟まれて動けなくなる。炎が迫るなか必死で救助しようとする秀雄に、子どものことを頼むと言い残して焼死する。
- 岡崎看護婦:岸旗江
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- 被爆者を収容した病院の看護婦。自らも原爆症を発症する。
- 保母:利根はる恵
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- 明男の通う、寺院の経営する幼稚園の保母。
- 千田先生:神田隆
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- 8月6日当日、建物疎開活動をしていた中学生たちの引率教師。被爆で重傷を負いながらも傷ついた生徒たちを気遣っている。
- 遠藤幸夫:月田昌也(新人)
- 医者:三島雅夫
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- 被爆した女性を診察した際に、無傷のように見える患者が脱毛症状を現し、次第に衰弱していくことを指摘する。
- 原爆投下直後に錯乱し、旗を振って「大日本帝国万歳!」と叫び走り回る。
- 幸夫のおじ:花沢徳衛
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- 児童養護施設で暮らしていた幸夫を引き取る。
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- 仁科博士ら科学者と軍幹部との会議に同席。原爆投下と判明したこの期に及んでもなお「聖戦完遂」を強く主張する軍の幹部に呆れ、苦々しい表情を見せる。
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- 現代パートでみち子や幸夫たちの級友。学校に来なくなった幸夫のことを心配している。
- 大庭町子:松山梨繪子
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- みち子の姉。学徒動員での建物疎開中で被爆して重傷を負い、猛火を避けて級友たちとともに川へと避難するが流れのなかで力尽きる。
- 大庭みち子:町田いさ子
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- 幸夫の妹。兄とともに疎開先から自宅の焼け跡に戻ってくる。兄に連れられてきた救護所で瀕死の父と再会するが、変わり果てた父の姿にショックを受けてその場を立ち去り、行方不明になる。
- 大庭明男:南雅雄
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- 町子・みち子の幼い弟。被爆により重い火傷を負い、避難中に母・みねの背中で息絶える。
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- 病院で遠藤秀雄の世話をしている中年婦人。遠藤家の焼け跡で幸夫・洋子兄妹に会い、病院に連れて行く。
スタッフ
- 監督:関川秀雄
- 製作:映画製作委員会(菊地武雄・伊藤武郎)
- 製作主任:浅野正孝
- 企画:日本教職員組合
- 原作:長田新『原爆の子』
- 脚本:八木保太郎
- 撮影:中尾駿一郎
- 特殊撮影:小松浩
- 照明:伊藤一男
- 美術:平川透徹
- 編集:河野秋和
- 音楽:伊福部昭
- 録音:安恵重遠
- 監督補佐:小林太平
- 監督助手:熊井啓
- 協力:広島市日本労働組合総評議会・広島県労働組合会議・原爆の子友の会・原爆被害者の会・広島電鉄・藤田組[1]
製作
企画背景
広島市民から要請を受け[2]、1952年(昭和27年)8月、日本教職員組合中央委員会が製作を決定[2]。「いかにしてあの日を正確に再現するか」が主眼とされた。制作宣言の中には「世界で最初の原爆を受けた日本人は、原爆禍の広島を正視し、深い認識を持つとともに、全世界に対してこの実相と罪悪を正確、卒直に公表し、訴えなければならない義務と権利を持つものであります」と書かれた[3]。全国の組合員がひとり50円カンパし[2]、2,400万円を用立て、加えて全国から4,000万円(今の5億円余り)の巨額の制作費を工面した[2]。朝鮮戦争でトルーマン米大統領が「原爆使用」を公言したのを機に、被爆者の「広島を繰り返すな」という叫び、原爆がいかに残虐な兵器かを全国・世界に伝えねばならない熱い思いが映画製作への参加へと突き動かしたいわれる[2]。当時の国民的な反戦感情の高まりと結びついていた[2]。日教組はもともとGHQが組織させたものだが、「教え子を戦場に送るな」と政府と鋭く対立するようになっていた[2]。また映画が完成する3年前の1950年に、原爆のことを口にすることさえはばかられていた占領下の広島で、公然と原爆投下の犯罪をあばき、原爆に反対するたたかいの火ぶたが切られ、多くの広島被爆市民の怒りを束ねて全広島の世論を形成していったことも映画制作の背景にあった[2]。広島の被爆市民の世論の転換は、アメリカが真珠湾攻撃や「バターン死の行進」を理由に、また「戦争を早く終わらせるために必要だった」と、原爆投下を正当化する欺まんを引きはがし、広島から全国、世界へ原爆投下の真実を発信する確かな陣形を築いていた[2]。その力は、映画完成から2年後に、広島で第1回原水爆禁止世界大会を開催するまでになっていた[2]。
脚本
八木保太郎のシナリオは、広島の被爆市民がその作成過程から出演まで全面的に関わった[4][2]。広島県教職員組合内で討議し、何回も書き直した[2][14]。この過程で、映画の題名を『ひろしま』とすることが決定されたが、原作の手記「原爆の子〜広島の少年少女のうったえ」を編纂した長田新広島大学教授から不同意の意思が伝えられた[15][16]。
キャスティング
広島市出身の月丘夢路は、1951年、52年の二年間、アメリカロサンゼルスとニューヨークに滞在[17]。そこでアメリカの俳優、歌手たちが盛んに社会貢献を口にすることに触れ[17]、帰国後、自身も「何か社会貢献をしたい」と考えていたとき、独立プロで広島原爆の映画を作ると聞いた[17]。広島の映画なんてそうあるものじゃない、あってはいけないが是非出演したいと、月丘は当時松竹の専属で、他社出演は難しい時代だったが[10][17]、何度も会社を説得し[17]、「戦争の大きな抑止になればいい」という思いから[2][17]、ノーギャラで出演した[2][5][10]。爆心地(現:中区大手町)には実家の薬局があった。演じた女学校の生徒は、実際に月丘が通った県立広島高等女学校(現:広島県立広島皆実高等学校)の生徒たちという[17]。出演した早志百合子が月丘とともに川に入る場面の撮影は、実際に被爆直後、逃げまわった同じ場所で行われた[4]。撮影は当日の景色と重なり吐きそうだったという[4]。月丘は本作に出演したために、ダメになった仕事もあり、日本航空が初めて飛行機を飛ばすとき、アメリカに招待されていたが、月丘が『ひろしま』に出ていることを調べられアメリカに来ることを拒まれたという[17]。
仁科博士役の薄田研二は、原爆により、当時移動演劇隊「櫻隊」巡業で、広島滞在中だった息子の俳優・高山象三を失っている。また「櫻隊」の前身である苦楽座の座員だったが、病気により広島公演に参加せず、結果として被爆死を免れた利根はる恵も出演した。
教師役で出演する岡田英次は、6年後に同じ広島原爆をテーマとした1959年公開アラン・レネ監督の日仏合作映画『二十四時間の情事』(『ヒロシマ・モナムール』)で主演。広島で出会ったフランス人女性(エマニュエル・リヴァ)と恋に落ちる出征中に家族を原爆で亡くした過去を持った男性を演じた。同作では『ひろしま』の被災シーンが、資料映像として引用されている。
撮影
1953年(昭和28年)4月17日、関川秀雄監督、伊藤武郎プロデューサーらが広島市内をロケハン[18]。
撮影現場に被爆直後の広島の家屋の倒壊を再現した膨大なセットを製作[2]。当時は広島市に本社を置いていた藤田組(現フジタ)が協力したものと見られる。5月21日、物語の中盤になる広島湾似島の似島学園で現地ロケがスタート。被爆者・広島市民との交流の中で撮影が行われた。5月26日、山田五十鈴は広島市鉄砲町(現中区)に被爆体験を描く画家・福井芳郎を訪ね、体験に耳を傾けた[19]。6月5日には河原崎しづ江、加藤嘉ら出演者4人が広島赤十字・原爆病院に入院患者を見舞った[20]。6月15日、広島市立翠町中学校の工作室で原爆投下前後のシーンの撮影を開始[20]。7月16日と17日、山田ら俳優、スタッフも参加して、原爆孤児救済募金のため「芸能の夕」が、基町の児童文化会館で開催された[21]。園児から小中高校の児童・生徒、PTA、労働組合など全市民的な参加で、撮影期間中、出演に協力する市民が日を追うごとに増えたといわれる[2]。そのため、当初予定していた教師と生徒が合唱しながら原爆ドームに向かうラストシーンを、世代をこえた市民2万人が参加して原爆ドームに向かって行進する場面に切り替えた[2][4]。
ロケ地
概ね前半三分の一が現代(1953年)、三分の二から原爆投下直後(1945年)の悲惨な状況、数日経ったパートとなり、残り20分で再び現代パート。原爆投下直後の軍の話し合いで負傷した兵隊が「新型爆弾に対しても何らか手があるという信念を抱かしめ(以降、解読不能)」という次なる新型爆弾の攻撃に対して抵抗を見せるべきと訴えるセリフ、軍の会議でも負傷した将校が同様に徹底抗戦を訴えるシーンがある。最初と最後にある現代パートでは1953年撮影当時の広島市内の風景がふんだんに登場する。月丘夢路も「当時の広島を上手く撮っておられる」と述べている[17]。北川先生(岡田英次)のセリフ「ABCCが診察はするが治療はしない」は1969年の松竹『海はふりむかない』などでも使用されるあまりに有名な話[注 1]。このセリフの後、ABCCを平和大通り側から比治山上の建物を捉えたカットと、ABCCの特徴的なカマボコ型の建物の2カットを映した後、原爆ドームの前で背中のケロイドを外国人の見世物にする人が映る[3]。原爆ドームにはまだ柵がなく、米兵と日本人女性カップルが大勢ドームの周りの瓦礫の上を歩く[注 2]。ここから「軍艦マーチ」が流れ続け、日本基督教団広島流川教会や平和大橋、平和記念公園が造成中で広島平和記念資料館が映るが、原爆死没者慰霊碑と原爆ドームの間、レストハウスの横に多くの家が密集する。ラスト近くにも平和公園が映り、建設中の新広島ホテルや原爆死没者慰霊碑のほんの20メートル横に観光バスが停まる。他に人影の石や、広島の繁華街、金座街の現在の広島パルコ前あたりから撮られた「岡仙玩具店」などが映る[22]。千田町時代の広島大学が映った後、病床に伏せる大庭みち子(町田いさ子)を挟み、戦時中の学徒訓練シーンにスーパーインポーズする。
残り20分の現代パートでは宮島の撮影当時の風景が映る。宮島表参道ではかめ福(現ホテル みや離宮)などが映り、お土産店に名産しゃもじが並ぶが、今日のように「必勝」「商売繁盛」「合格」のような文字は書かれてなく、大鳥居などの絵が描かれている。しゃもじの横にドクロに蛇が乗るレプリカが土産に並ぶ。最終盤に本物のドクロを子供たちが売る暗示として登場させる。表参道商店街は今日では多くのお客で賑わうが、歩く人は少なめ。もみじ饅頭が売っているかは分からない。食べ物スウィーツ系の土産は画面を見る限り映らない。八丁堀交差点[23]が映った後、遠藤幸夫(月田昌也)の自宅の葬式後、幸夫がキャバレーでボーイとして働く場面があり、店内が映り、店名に「パレス」と出る。この一場面だけセットを作った可能性は低いことから実際の「パレス」と見られ[注 3]、山村辰雄が後に経営するキャバレーなのかもしれない。『仁義なき戦い』関連でいえば『仁義なき戦い 広島死闘篇』で息子役の大友勝利(千葉真一)に手を焼く大友長次を演じる加藤嘉が出演しており準主役級に出番も多い。似島学園から遠藤(月田)を引き取る幸夫のおじ(花沢徳衛)に応対する先生は森芳麿のモデル(役者名不明)と見られる。遠藤(月田)と足の不自由な娘が城壁の上で話すシーンで、遠くに原爆ドームが映ることから広島城と見られ、原爆で天主が焼け落ちた城壁で、この映画でしか見られない貴重映像かもしれない。遠藤(月田)が入る的場町にあった映画館「太陽館」[23]に日本では1952年9月に封切られた『チャップリンの殺人狂時代』が掛かり、ポスターには「虫も殺さぬやさしい紳士…」などと書かれている。この後、松竹がカットを要求した遠藤(月田)が原爆孤児らを先導し、似島で原爆で死んだ人の頭蓋骨を掘り出し米兵に売り、警察に呼び出されるシーンで、警察署に迎えに来た北川先生(岡田)に遠藤(月田)が映画に感化され、「先生、僕は『殺人狂時代』という映画を観ました。その映画で戦争でたくさん人ごろしをした者が英雄になるのに、他の人ごろしは死刑になると言っているんです」などと訴える。劇中、誰一人広島弁は喋らない。
音楽
伊福部昭作曲の音楽は翌年の『ゴジラ』の劇中曲「帝都の惨状」等に転用されている[10]。原爆投下の爆発音はピアノ1台で表現した[10]。被災した幼児の泣き声を音楽の一部として用いる手法も同じである。
上映
8月10日、広島市内の映画館「ラッキー劇場」[注 4]で試写会が開催された。上映後には、「原爆の子〜広島の少年少女のうったえ」の手記を書いた子どもたちの集まりである「原爆の子友の会」会員、関川監督、長田新広島大学名誉教授らの座談会が開かれた。
しかし製作側が大手映画会社と全国配給を交渉するが、刺激的な場面を巡り折り合えず、交渉が決裂[2][7][10]。同年9月、松竹は「反米色が強い」として登場人物が1952年4月に光文社から出版された篠原正瑛編著『僕らはごめんだ 東西ドイツの青年からの手紙』の一節を読み上げる「ドイツではなく、何の罪のない日本人が新兵器のモルモット実験に使われたのは、日本人が有色人種だったからだ」という趣旨の台詞がある場面など3つのシーンのカットを要求した[2][4][10][25]が、製作側はカットを拒否[10]。松竹がカットを要求したのは、制作前年までプレスコードを敷いていたGHQに配慮したためとみられている[2][6][25]。9月11日、「広島、長崎県は自主配給」の方針を決定した[10]。また、東宝や大映など大手五社も配給を拒否[4][12]。9月15日には、東京大学職員組合と日本文化人会議が東京都内(東京大学構内での上映の予定だったが大学当局がこれを禁止したため、港区の兼坂ビルに変更)で初めて映画を上映し、この日から東大で開催されていた国際理論物理学会議に出席した海外からの科学者8人らが観賞[26]。10月7日、製作元と北星映画の共同での配給により、広島県内の映画館で封切り。一方、大阪府教育委員会が試写会を開いて「教育映画」としての推薦を見送る等、学校上映にも厳しい壁が立ちはだかった。報道統制の影響でほとんど劇場公開されず[5]、多くの国民には知られることなく埋もれて[2]、「幻の映画」となった[6]。被爆者たちが辛い記憶に向き合いながら、懸命に演じた映画だったが、その思いはくじかれた[4]。
海外での反応と上映
1953年(昭和28年)8月25日 、イギリスの大衆新聞「デイリー・スケッチ」が同国内や英語圏での上映がない段階で、「(日本人の)憎悪の念をかき立てる」映画として、批判記事をトップで掲載[27]。
- 1955年(昭和30年)5月、ニューヨークのバロネットシアターで上映。17日付の「ニューヨーク・タイムズ」に映画の紹介が掲載された[28]。エレノア・ルーズベルト夫人は、「この映画は控えめにつくられているが効果的である」「平和増進に役立つだろう」 と賞賛した[29]。
1955年(昭和30年)、第5回ベルリン国際映画祭で長編映画賞を受賞[2][10]。11月8日、ドイツ国内で公開される[30]。
作品の評価
- 佐藤忠男は「当時の状況を正確に記録して残そうとできるだけ再現しており、後世に残すべき作品だ」と[2]、オリバー・ストーンは「衝撃的で独創的な作品だ。出演したエキストラの多くは本当の被爆者だった。被爆者ならではの描写がたくさんある。普通はそこまで描けない」「絶対に見て欲しい。世界中の人に見て欲しい映画です。なぜなら優れた映画であり、優れたストーリーであり詩的だ。そして、この映画は現代戦争の真の恐ろしさを思い出させてくれます。記憶は常に忘却との闘いです。常に人は思い出したくないものには背を向けるのです。だから、この素晴らしい映画を見て欲しいと伝えています。あらゆる人に、全世界の人に」と2019年8月10日23時NHKEテレ放送のETV特集「忘れられた『ひろしま』~8万8千人が演じた”あの日”」で語った[2][4]。
リバイバル上映とデジタル化
長く劇場上映の機会がなく「幻の映画」と言われていたが[4][6][8][10]、本作の監督補佐だった小林大平の息子でプロデューサーの小林一平が、2008年頃から全国各地でのリバイバル上映を進め近年復活[2][4][7]、大平の孫・小林開が運動を引き継いでいる[2][4][7]。広島での劇場再上映は2011年[10]。その後も各地で上映され[6][31]、被爆80年の2025年夏には広島を始め、大阪や東京など全国8か所の映画館で上映された[5]。小林開は「核廃絶の道のりはまだ遠い。映画を広めていく使命は続く」と述べている[7]。日本映画を海外へ販売するプロデューサー伊地知徹生が、小林一平の活動を引き継いだ小林開の活動を知り、北米上映とフィルム劣化防止のデジタル化のスポンサーを申し出、2017年に経年劣化したフィルムをデジタル化[2][5]。米ロサンゼルスで良質な映画を北米配信する専門チャンネルFILM STRUCK EXTRASのプロデューサーのチャールズ・タベシュがデジタル資金を提供しデジタル化字幕付きで配信し、北米、欧州、アジアの10ヵ国で上映[4]。海外での普及・上映も広がっている[2][4]。
地上波テレビ放送
2019年8月17日(土曜)0:00 - 1:47(8月16日〈金曜〉深夜)に、NHKEテレで全国放送された。また、同年11月17日(日曜)10:05 - 11:52にはNHK総合テレビ(広島放送局ローカル)で再放送された。
脚注
注釈
出典
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- ^ 映画『ひろしま』上映会開催しました! – 立命館大学国際平和ミュージアム、あいち平和のための戦争展 ◆幻の映画「ひろしま」デジタルマスター版が、名古屋初公開! –8万8千人の広島市民、生徒が参加して、原爆投下の惨状を再現– ボランティア 吉田稔 – 戦争と平和の資料館ピースあいち、西日本豪雨災害復興支援–みらいへ (PDF) ひらいへつたえる「ヒロシマと東海村をつなぐ架け橋」実行委員会 茨城県社会福祉協議会、2019年、令和5年度平和映画上映会(※終了しました)満員御礼となりました。沢山の方のご来場をありがとうございました! – 大和市役所、ひろしま – シネ・ヌーヴォ、【参加募集】被爆80年 過去を学び・平和を考える 映画『ひろしま』上映会 – 長野県NPOセンター、8月6日(水)戦後80年 ー映画「ひろしま」と、いせフィルムの厭戦映画上映ー – シネマ・チュプキ・タバタ、【平和を祈る映画特集】ひろしま – ガーデンズシネマ
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ひろしま
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