美術学者として
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1953年京都市立美術大学講師、1956年から1957年までソルボンヌ大学民族学研究所に留学。1958年助教授、1969年京都市立芸術大学 美術学部教授、1974年同名誉教授、大阪大学文学部教授、1975年「美術の始源」で大阪大学文学博士、1976年国立民族学博物館併任教授、1989年大阪大学を定年退官、名誉教授、大阪府顧問、1992年国立国際美術館館長、その後兵庫県立美術館長。民族芸術学会名誉会長。この間世界全域で多くのフィールドワークをおこなう。 1967-1968年「京都大学 大サハラ 学術探検」(総隊長・山下孝介)。これは木村重信が企画し、講談社 創業60周年とフジテレビ 開局10周年の事業にドッキングしたもので費用はすべて民間企業の寄付によってまかなわれた。全隊員の調査報告および記録は『大サハラ─京都大学大サハラ探検隊』(講談社)として1969年に刊行された。フジテレビが「大サハラ」というタイトルで1969年1月~3月に13回にわたり放映。産経新聞 が「サハラ砂漠─京大学術探検隊とともに」を1968年1月~2月に30回にわたって連載。 1985-86年「大阪大学 南太平洋学術調査・交流事業」(委員長・木村重信)。この事業は大阪大学創立50周年記念事業として企画された。『南から新しい光が─大阪大学創立50周年記念 南太平洋学術調査写真集』(講談社)が1986年6月に市販書として刊行された。 1966年『カラハリ砂漠』で毎日出版文化賞受賞、1991年大阪文化賞、1998年勲三等旭日中綬章、1999年京都市文化功労者、2001年兵庫県文化賞など受賞。 太宰治『パンドラの匣』の底本となった日誌の書き手・木村庄助は実兄であり、津島美知子から返却された日誌は重信の編纂で刊行された。丸京山城園製茶場の経営者で歌人の木村草弥は実弟。
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