ハンナ・ヘッヒ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/31 08:22 UTC 版)
ハンナ・ヘッヒ
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クリス・ルボーによるヘッヒの肖像画
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生誕 | 1889年11月1日![]() |
死没 | 1978年5月31日 (88歳没)![]() |
運動・動向 | ダダ |
ハンナ・ヘッヒ(Hannah Höch, 1889年11月1日 - 1978年5月31日)は、ドイツのベルリンで活躍したダダイストの芸術家。ハンナ・ヘーヒ[1]、ハナ・ヘーヒ[2]などと記載されることもある。前衛芸術集団であるベルリン・ダダで活動した唯一の女性芸術家である。フォトモンタージュ技法を活用した作品で知られる[3]。ヴァイマル共和政時代に、奇妙なイメージをかもし出す、多くの油彩やフォトモンタージュ作品を制作した。その多くは、人体を解体して入れ換えたり、人体の一部を他のもので置き換えたりする作品である。フォトモンタージュの技法の創始者は諸説あるが、1918年の夏に、恋人だったダダイストのラウル・ハウスマンと共に創始したといわれている。
生い立ち

ハンナ・ヘッヒはアンナ・テレーゼ・ヨハンネ・ヘッヒとしてドイツのゴータで生まれた[4][5]。1912年にガラスデザイナーのハロルド・ベルゲンの指導でベルリン応用芸術学校で学び始めた[6]。父を喜ばせるため、ファインアートではなくガラスデザインとグラフィックアートの課程を選んだ[6]。
1914年に第一次世界大戦が始まり、ヘッヒは学校を離れてゴータに戻って赤十字で働いた[7]。1915年にベルリンに戻り、国立芸術工芸美術館学校でエミール・オルリックの図画クラスをとった[8]。同年に、後にベルリンダダ運動の活動家となるラウル・ハウスマンと交際しはじめた[7]。ヘッヒは1917年からベルリン・ダダにかかわりはじめたが、グループで唯一の女性であり、選挙権を持ち、性的な出会いを楽しみ、財政的にも自立を目指す、「新しい女」に関連するテーマを一貫して追及するバイセクシュアルの芸術家という特徴的な存在であった[9]。
主要文献
- The Photomontages of Hannah Höch, Carolyn Lanchner, Peter Boswell, Walker Art Center, 1996
- Hannah Höch: Bilderbuch, Gunda Luyken, The Green Box Kunstedition, 2008, ISBN 3908175356, ISBN 978-3908175353
- Hannah Höch: Album, Gunda Luyken, Hatje Cantz, 2004, ISBN 3775714278, ISBN 978-3775714273
- Cut with the Kitchen Knife: The Weimar Photomontages of Hannah Höch, Maud Lavin, Yale University Press, 1993, ISBN 0300047665, ISBN 978-0300047660
- ダダ・ナチ ドイツ・悲劇の誕生(全3巻、1913-1920、1920-1925、1926-1932)(平井正・せりか書房・1993年~1994年)
脚注
- ^ “ハンナ・ヘーヒ[コラージュ] | 美術館(2021以前)”. I/M 市立伊丹ミュージアム. 2025年8月31日閲覧。
- ^ 美術出版社・「写真の歴史」・ナオミ・ローゼンブラム 1998年における表記
- ^ 香川檀『ハンナ・ヘーヒ――透視のイメージ遊戯』水声社、2019年、15頁。
- ^ Biro 2009, p. 199.
- ^ Great Women Artists. Phaidon Press. (2019). p. 189. ISBN 978-0714878775
- ^ a b Makela 1994, p. 13
- ^ a b Makela 1994, p. 49
- ^ Gaze 1997, p. 699
- ^ “Hannah Höch | National Museum of Women in the Arts”. nmwa.org. 2019年3月16日閲覧。
固有名詞の分類
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