戦後、大学時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 22:37 UTC 版)
「ポール・ファイヤアーベント」の記事における「戦後、大学時代」の解説
戦後、ファイヤアーベントはアポルダ(ヴァイマール近くの小さな町)で市のイベントの台本を書く、一時的な仕事を得た。彼はマルクス主義の劇作家であるベルトルト・ブレヒトに影響を受けた。ブレヒトに東ベルリンオペラでの助手として招待を受けたが、ファイヤアーベントはそれを断った。 ファイヤアーベントは、ヴァイマール音楽院で多くの授業を取り、ウィーンに戻ってからは歴史学と社会学を学んだ。しかし歴史学と社会学には満足できず、すぐに物理学に転科した。そこでファイヤアーベントはフェリックス・エーレンハフトと出会い、エーレンハフトの実験はファイヤアーベントの後年の自然科学の見方に影響を与えることになった。 ファイヤアーベントは研究領域を哲学に変え、観察命題に関する学位論文を提出した。自叙伝において、彼は当時の自分の哲学的立場を「頑固な経験主義者」(前掲書 p.96)と表現している。 1948年、ファイヤアーベントは、アルプバハで開かれた、オーストリア・カレッジ協会の主催による最初の国際夏季学校に参加した。ここでファイヤアーベントはカール・ポパーと初めて出会った。初期のポパーは後期ポパーが与えた「ネガティブ」な印象と同等の「ポジティブ」な印象をファイヤアーベントに与えた。 1951年、ヴィトゲンシュタインの下で研究するため、ブリティッシュ・カウンシルの奨学金を受ける。しかし、ファイヤアーベントの渡英前にヴィトゲンシュタインが死んだため、指導教授としてポパーを選び、1952年、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに移った。ファイヤアーベントは、当時のポパーからの影響に関して、ポパーの考えに「参っていた」(前掲書 p.141)と説明している。 その後ファイヤアーベントはウィーンに戻り、ポパーの「開かれた社会とその敵」の翻訳や、戦後オーストリアの人文学の調査や、百科事典の項目の執筆など、多くのプロジェクトに関与した。
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