戦後、外務官僚として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:54 UTC 版)
1947年(昭和22年)10月14日、他の皇族と共に臣籍降下(皇籍離脱)し、以降は賀陽 治憲(かや はるのり)となる。 その後、1950年(昭和25年)に東京大学法学部を卒業して外務省に入省する。米国フレッチャー法律外交大学院留学、国際連合日本政府代表部一等書記官、在アメリカ合衆国日本国大使館一等書記官、欧亜局英連邦課長、1969年(昭和44年)日本政府沖縄事務所次長、ジュネーブ国際機関日本政府代表部公使、外務省経済局次長、領事移住部長を経て、1979年(昭和54年)から1981年(昭和56年)まで国連局長。同年在イスラエル特命全権大使、1983年(昭和58年)在デンマーク特命全権大使、1987年(昭和62年)外務省研修所長、1989年(平成元年)ブラジル特命全権大使。財団法人交流協会顧問と要職を歴任した。 1970年代後半から1980年初めにかけてには国会の政府委員(外務省国際連合局長)として、複数回政府委員として答弁を行った。この中には奴隷制度廃止補足条約など国際連合の人権条約の批准について消極的な答弁をしたものが含まれる。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}昭和天皇はその存在を気にかけていたようであり、天皇が「賀陽はどうしているか」と安倍晋太郎外相に動向を尋ねたといった逸話も残っている[要出典]。侍従長入江相政は、1983年(昭和58年)11月15日付の日記で治憲王に言及し、「皇族、舊(旧)皇族のうちのまさにピカ一。こんな方がもう少しゐて下されば。」と書いている。 1996年(平成8年)からは憩の園在日協力会会長を務め、学習院の同窓会桜友会の会長(第5代)も務めた。 2011年(平成23年)6月5日、老衰のため東京都稲城市の病院で逝去。叙・従三位。
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