戦後・受賞歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/15 17:15 UTC 版)
「リチャード・マーシャル (軍人)」の記事における「戦後・受賞歴」の解説
マーシャルは1946年11月30日に少将の地位で陸軍を退役し、以降はバージニア軍学校の第7代校長として1952年6月までその地位にあった。離任の際、マーシャルはワシントン・アンド・リー大学から法学博士 (LL.D.) の名誉学位を授与された。また、ハリー・S・トルーマン大統領からはフィリピンの経済調査を行う「ベル・ミッション」担当の、無任所大臣的な副官に任ぜられた。 バージニア軍学校校長としての最後の年、マーシャルはバージニア州から様々な便宜を図られた。第二次世界大戦終結後、マーシャルはバージニア軍学校から10万ドルから60万ドルほどの基金の供与を受け、これを元手に6年間で受け入れる士官候補生の数を300名から950名に拡大し、軍事面のみならず非軍事面の教育も充実された。士官候補生の増加に伴って教員の数も増加し、人員増加に伴う新たな兵舎も建設され、これはマーシャルの在任中に完成した。 1952年、マーシャルは脳血管障害を患って公的な活動からは引退し、以降はフロリダ州で引退生活を過ごした。1973年8月3日、マーシャルはフロリダ州フォートローダーテールで死去。78歳没。アーリントン国立墓地第7区画に埋葬され、同じ第7区画には弟のサンジュリアンも埋葬されている。 マーシャルの軍歴の中における受賞歴は、第一次世界大戦での功績でシルバースターを授与され、第二次世界大戦では殊勲十字章、陸軍殊勲章(英語版)および2個のオークリーフ・クラスター(英語版)が授けられた。また、フランスからはレジオンドヌール勲章オフィシエ、オランダからはオラニエ=ナッサウ勲章グランドオフィサー(英語版)、フィリピンからは殊勲星章とオークリーフ・クラスターがそれぞれ授与された。
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