戦後、帰郷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 04:55 UTC 版)
終戦後、宮内省皇宮警察部は禁衛府皇宮警察部を経て警視庁皇宮警察部に改組され、清は警視庁皇宮警部補に昇任した。 1946年(昭和21年)4月、祖父権蔵が死去。 1947年(昭和22年)6月、警視庁皇宮警察部を退職して鹿児島へ帰郷。農業畜産で生計を立てる。占領軍によって剣道は禁止されていたが、鹿児島はあまり厳しく監視されていなかったため、ひそかに剣道の稽古を行った。 1951年(昭和26年)5月、牛車から転落する事故で左足首を骨折し、骨が飛び出る重傷を負う。再起不能と言われたが、左足に負担がかかりにくい左上段の構えを開眼して、剣道復興とともに返り咲く。 1952年(昭和27年)3月、高山町の大隅算盤に剣道師範(課長待遇)として就職する。同年10月、東京で全日本剣道連盟(会長木村篤太郎)が結成されると、清は木村や皇宮警察関係者に手紙を送り、上京したいと伝えたが、東京に剣道家が勤める仕事はないと言われ、あきらめた。師の中山博道も有信館を手放し窮乏していた。
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