戦後・名楽園時代
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威容を誇った中村遊廓も、戦災で55軒が焼失した。特に賑町の被害が多かった。現業を続けるものは19軒のみであった。それでも吉原等他地域の遊廓に比べると優良な残存建物の多さがきわだっていた。 終戦直後、進駐軍軍人の登楼がにわかに増え、当時営業していた店舗・芸妓だけでは対応しきれないほどになった。しかし1945年(昭和20年)12月15日に進駐軍の登楼禁止令が発せられ、登楼客はガタ落ちとなった。 政府は1946年(昭和21年)2月2日に内務省令第3号をもって、公娼制度の廃止を通達した。その後もその趣旨を徹底させるため2度にわたり「公娼制度の廃止に関する指導取締りの件」なる通達が出された。しかしながら昭和21年9月、まず警視庁管内で、「接待所慰安所等の転換措置に関する件」なる改善指導策が出され、同様の措置が全国の遊廓営業地に伝播した。その内容は、旧来の娼家としては営業が認められないが、特殊飲食店と名義替えすることによって娼家に準ずる営業内容をも認めようというものである。中村遊廓の組合は、1945年(昭和20年)9月、「旭廓貸座敷組合」を「名楽園組合」と改称すると同時に、貸座敷を特殊飲食店に変更、「娼妓」を「芸妓」と改称した。さらに翌昭和21年4月、特殊カフェーと改称、「芸妓」を「給仕婦」と改めた。かつての中村遊廓は、いわゆる赤線の一つになった。 この時期東海地方では、名楽園以外にも同様な特殊カフェー組合が組織され、なかでも城東園・八幡園・新陽園などの「○○園」という名称が流行した。これらの名称の中で現在まで持続しているのが、岐阜市の金津園である。 1953年(昭和28年)頃には、営業者は81軒、給仕婦は約900人まで回復した。しかし、進駐軍の登楼禁止令以降の不況は長引き、加えて、国鉄名古屋駅近辺に増えてきた街娼や新興の非公認業者の台頭で、戦前ほどの活況を取り戻すまでには至らなかった。 なお、『歓楽の名古屋』にみる昭和12年当時の廓内明細図と、昭和30年代以降の住宅地図を比べると、店の位置の変更が多々ある。戦中に焼失した店の再配置等が原因と考えられる。
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