戦後・名楽園時代とは? わかりやすく解説

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戦後・名楽園時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 15:10 UTC 版)

中村遊廓」の記事における「戦後・名楽園時代」の解説

威容誇った中村遊廓も、戦災55軒が焼失した。特に賑町被害多かった現業続けるものは19軒のみであった。それでも吉原他地域遊廓比べる優良な残存建物多さきわだっていた。 終戦直後進駐軍軍人登楼にわかに増え当時営業していた店舗芸妓だけでは対応しきれないほどになった。しかし1945年昭和20年12月15日進駐軍登楼禁止令が発せられ、登楼客はガタ落ちとなった政府1946年昭和21年2月2日内務省第3号をもって公娼制度廃止通達した。その後もその趣旨徹底させるため2度にわたり「公娼制度廃止に関する指導取締りの件」なる通達出された。しかしながら昭和21年9月、まず警視庁管内で、「接待慰安所等の転換措置に関する件」なる改善指導策が出され同様の措置全国遊廓営業地に伝播した。その内容は、旧来の娼家としては営業認められないが、特殊飲食店名義替えすることによって娼家準ずる営業内容をも認めようというものである中村遊廓組合は、1945年昭和20年9月、「旭廓貸座敷組合」を「名楽園組合」と改称する同時に貸座敷特殊飲食店変更、「娼妓」を「芸妓」と改称した。さらに翌昭和21年4月、特殊カフェー改称、「芸妓」を「給仕婦」と改めた。かつての中村遊廓は、いわゆる赤線一つになった。 この時期東海地方では、名楽園以外にも同様な特殊カフェー組合組織されなかでも城東園八幡園・新陽園などの「○○園」という名称が流行した。これらの名称の中で現在まで持続しているのが、岐阜市金津園である。 1953年昭和28年)頃には、営業者は81軒、給仕婦は約900人まで回復した。しかし、進駐軍登楼禁止以降不況長引き加えて国鉄名古屋駅近辺増えてきた街娼新興非公認業者台頭で、戦前ほどの活況取り戻すまでには至らなかった。 なお、『歓楽名古屋』にみる昭和12年当時廓内明細図と、昭和30年代以降住宅地図比べると、店の位置変更多々ある戦中焼失した店の再配置等が原因考えられる

※この「戦後・名楽園時代」の解説は、「中村遊廓」の解説の一部です。
「戦後・名楽園時代」を含む「中村遊廓」の記事については、「中村遊廓」の概要を参照ください。

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