戦後処理・影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 04:47 UTC 版)
秀吉は政宗に葛西・大崎13郡30万石を政宗に与えたが、その替わりに本来の所領12郡余72万石のうち、6郡(長井・信夫・伊達・安達・田村・刈田)44万石を没収して氏郷に与えた。これにより政宗の所領は19郡余58万石となった。 政宗に新たに与えられた葛西・大崎13郡は一揆による荒廃が甚だしく、加えて200年余もの間伊達氏の所領であった伊達・信夫・長井の3郡を喪失したことにより、実際に被った経済的損失は減封分14万石を大きく上回るものであった。なお、葛西・大崎13郡が復興を遂げて仙台藩が実高100万石とも称されるようになるには、寛永3年(1626年)の川村重吉による北上川改修工事の完成を待たねばならない。 同時に転封に伴う伊達家中の知行再編が行われたが、減封の影響によって知行高は軒並み削減された上、転地の際にはそのままでは収穫を見込めない荒蕪地・野谷地を多く宛われたため、困窮した家臣団の不満が高まった。転封を拒んだ北目城主・粟野重国が居城を攻め落とされたほか、伊達成実・国分盛重・鬼庭綱元・遠藤宗信ら重臣の出奔が相次いだ。また、広大な知行地を与えた重臣達に領地復興を丸投げする格好になったため、仙台藩において地方知行制が幕末に至るまで残存する原因となり、集権化は大幅な後退を余儀なくされた。
※この「戦後処理・影響」の解説は、「葛西大崎一揆」の解説の一部です。
「戦後処理・影響」を含む「葛西大崎一揆」の記事については、「葛西大崎一揆」の概要を参照ください。
- 戦後処理・影響のページへのリンク