戦後初めての政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:46 UTC 版)
「ドイツ社会民主党」の記事における「戦後初めての政権」の解説
社民党が戦後初めて政権に参加したのは1966年のことだった。この年、ルートヴィヒ・エアハルト首相がキリスト教民主同盟内で失脚して辞職したが、後任の首相候補クルト・ゲオルク・キージンガーは自由民主党(FDP)との連立再建に失敗し、代わりに社民党に大連立(große Koalition)を求め、社民党がこれに応じたという経緯だった。社民党はキージンガー政権に閣僚を9人送り込んでいる。特に経済相カール・シラー(ドイツ語版)が失業率の大幅引き下げと鉱工業生産増大に功績をあげた。社民党はこの大連立によって「万年野党」の行政能力を世に知らしめることができた。 1960年代末にはより社民党に有利な状況が生まれた。当時「学生反乱」と呼ばれる社会的抗議運動が盛り上がり、世論に反保守的な空気が形成されていたうえ、1969年3月の大統領選挙で自由民主党が社民党のグスタフ・ハイネマンを支持したことで社民党と自由民主党の連携関係ができあがったためである。そのような背景から1969年の連邦議会選挙で社民党は得票を伸ばし、選挙後には自由民主党と連立して社民党党首ヴィリー・ブラントを首相とする内閣を成立させることができた。戦後初めての社民党首班政権だった。以後、ブラントとその後を継いだヘルムート・シュミット政権が自由民主党が連立を離脱する1982年まで続いた。 ブラントの「東方外交」により1960年代以降、社民党は東ドイツに対する党のテーゼを持つようになった。それは東ドイツ政府へ接近を図ることにより、同国に人権問題などへの対応を迫り、東西ドイツ間に格差がなくなった段階で統一するというものであった。この方針に基づき、東ドイツの独裁政党である社会主義統一党との友好を積極的に進めるようになった。 1970年代には社民党内にAPO(議会外反対)運動を展開するニュー・レフト勢力が出現するようになった。下からの参加民主主義を重んじる彼らは議会制民主主義を重んじる社民党議員団への挑戦を強め、党内派閥抗争が激化した。特に1970年代後半のシュミット政権下では西ドイツへの核ミサイル配備問題でこの対立が激化した。またシュミット政権とドイツ労働総同盟(DGB)は経済危機管理のため「安定性協定」を結んでいたが、それによる賃金規律や失業率の悪化に一部の組合が反発したことも党内の派閥化を促進する一因となった。
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