戦後北朝鮮における「延安派」
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「延安派」の記事における「戦後北朝鮮における「延安派」」の解説
1945年8月の日本の敗戦と朝鮮の解放によって、延安で活動していた朝鮮人社会主義者は順次帰国。その多くはソ連占領下の朝鮮北部における社会主義体制建設に参加していった。当時の北朝鮮はさまざまな経歴を持つ革命家の寄り合い所帯であり、延安派は金日成らの満州派(パルチザン派)、朝鮮内部で独立運動を行ってきた南労党派や甲山派、ソ連出身者を中心としたソ連派などの諸派閥と競合関係にあった。 1946年2月、金枓奉ら延安派を中心とするグループは北部朝鮮で朝鮮新民党を、南部朝鮮で南朝鮮新民党を結成。北の朝鮮新民党は、同7月、金日成の朝鮮共産党北朝鮮分局に吸収されて北朝鮮労働党となり、金枓奉が同党委員長に就任した。1949年6月、朝鮮労働党が結成され、同9月に朝鮮民主主義人民共和国が建国された。 中国で実戦経験を積んだ延安派の幹部や兵士たちは1948年に発足した朝鮮人民軍の中で重要な位置を占めた。1950年の朝鮮戦争において、武亭や方虎山は部隊の指揮に当たり、金雄や朴一禹らは中国との連絡と調整にあたった。 朝鮮戦争開戦時点において、朝鮮人民軍主力部隊の7個歩兵師団、21個歩兵連隊で幹部の地位を占めていた朝鮮義勇軍出身者を列挙すると次のようになる。 師団長 - 李権武(第4師団)、金昌徳(第5師団)、方虎山(第6師団)、全宇(第12師団) 参謀長 - 玄波(第2師団)、張平山(第3師団)、趙寛(第5師団)、盧喆龍(第6師団) 連隊長 - 崔京洙(第4連隊)、朴正徳(第10連隊)、金鳳文(第11連隊)、王輝(第12連隊)、韓日海(第13連隊)、黄石(第14連隊)、李芳南(第15連隊)、張教徳(第18連隊)、崔学勲(第30連隊)、李原成(第31連隊) 1956年、ソ連でスターリン批判が起こると、北朝鮮においても金日成批判が起った。延安派はソ連派とともにその中心となったが、金日成に敗れ粛清され(8月宗派事件)グループとして消滅した。
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