戦後北朝鮮における「延安派」とは? わかりやすく解説

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戦後北朝鮮における「延安派」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 06:39 UTC 版)

延安派」の記事における「戦後北朝鮮における「延安派」」の解説

1945年8月日本の敗戦朝鮮解放によって、延安活動していた朝鮮人社会主義者順次帰国。その多くソ連占領下朝鮮北部における社会主義体制建設参加していった。当時北朝鮮さまざまな経歴を持つ革命家寄り合い所帯であり、延安派金日成らの満州派パルチザン派)、朝鮮内部独立運動行ってきた南労党派甲山派ソ連出身者中心としたソ連派などの諸派閥と競合関係にあった1946年2月金枓奉延安派中心とするグループ北部朝鮮朝鮮新民党を、南部朝鮮南朝鮮新民党結成。北の朝鮮新民党は、同7月金日成朝鮮共産党北朝鮮分局吸収され北朝鮮労働党となり、金枓奉が同党委員長就任した1949年6月朝鮮労働党結成され、同9月朝鮮民主主義人民共和国建国された。 中国実戦経験積んだ延安派幹部兵士たち1948年発足した朝鮮人民軍の中で重要な位置占めた1950年朝鮮戦争において、武亭方虎山部隊指揮に当たり、金雄朴一禹らは中国との連絡調整あたった朝鮮戦争開戦時点において、朝鮮人民軍主力部隊の7個歩兵師団21歩兵連隊幹部地位占めていた朝鮮義勇軍出身者列挙する次のうになる師団長 - 李権武第4師団)、金昌徳第5師団)、方虎山第6師団)、全宇第12師団参謀長 - 玄波第2師団)、張平山(第3師団)、趙寛(第5師団)、盧喆龍第6師団連隊長 - 崔京洙(第4連隊)、正徳(第10連隊)、金鳳文(第11連隊)、王輝(第12連隊)、韓日海(第13連隊)、黄石(第14連隊)、芳南(第15連隊)、張教徳(第18連隊)、崔学勲(第30連隊)、原成(第31連隊1956年ソ連スターリン批判が起こると、北朝鮮においても金日成批判起った延安派ソ連派とともにその中心となったが、金日成敗れ粛清され8月宗派事件グループとして消滅した

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