戦後初期の発展 - 商業と文化の拠点としてとは? わかりやすく解説

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戦後初期の発展 - 商業と文化の拠点として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 01:00 UTC 版)

新宿」の記事における「戦後初期の発展 - 商業と文化の拠点として」の解説

新宿もまた東京大空襲により大きな被害受けたが、下町比べれば人的被害少なく新宿駅周辺には戦後間もない頃に関東尾津組による新宿マーケット始めとする闇市建ち並び良きにつけ悪しきにつけ、戦後新宿商業先駆けとなった東口中村屋横にできたハーモニカ横丁ではカストリ焼酎売られカストリ文化の名も生まれた。 ただし、政府による闇撲滅運動が始まると、1950年頃までには新宿から闇市姿を消し小売店次々と再開または新規開店し東口中心に新宿駅中心とした商店街戦前にも増して活気満ちあふれた。そして、1952年には新宿駅日本一乗換駅が多い駅となった。さらに、1960年代にかけて、丸井小田急京王などの百貨店続々進出し、現在見られるような新宿商業地風景作られた。 1960年代に入ると人びとにもゆとりが生まれ新宿商業急激な発展とともに娯楽演劇拠点としても戦前上の賑わいをみせる。その中心となったのが、戦災焼失した新宿駅北方の地の一角、すなわち、歌舞伎町である。歌舞伎町中心に数々映画館建ち並び1956年には新宿コマ劇場オープンし大衆人気集め1964年には紀伊國屋ホール開場し若手演劇人の登竜門となった。そしてこの頃から、アングラ演劇盛んになり、新宿は独自のサブカルチャーの発信地としての地位確立しジャズ喫茶歌声喫茶などの喫茶店には多く若者交流の場求めた学生運動盛んになった1969年は、新宿周辺盛んにデモ活動が行われた。5月14日には新宿駅西口地下広場続けられていたベトナム戦争反対訴えフォークソング集会警察によって強制解散となり、5月28日には若者達と機動隊衝突する新宿西口反戦フォークゲリラ事件」が発生した10月21日国際反戦デーでは、新宿付近デモ参加者暴徒化新宿騒乱呼ばれる事態発展した新宿駅破壊されたほか、東口周辺では乗用車放火される騒ぎ起きた。さらに11月16日には佐藤首相訪米反対するデモ膨張し新宿東口一帯群衆8000人が集結新宿三丁目交差点付近では火炎瓶投げ暴徒ガス銃機動隊応戦する騒ぎとなった。この一連の事件により西口地下広場は「通路」とみなされ一切集会禁止されるうになるなど、若者集まりにくい環境生まれ1973年渋谷PARCO開業などを機に若者文化中心渋谷へと移っていった。一方新宿乗り入れる鉄道路線での沿線人口激増背景として新宿駅巨大化と各百貨店盛況続き下記のような西口での大規模開発進行したことで、新宿多様な年代層が集まる巨大商業ビジネス拠点としての機能強化されていった

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