戦後初期の発展 - 商業と文化の拠点として
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「新宿」の記事における「戦後初期の発展 - 商業と文化の拠点として」の解説
新宿もまた東京大空襲により大きな被害を受けたが、下町と比べれば人的被害も少なく、新宿駅周辺には戦後間もない頃に関東尾津組による新宿マーケットを始めとする闇市が建ち並び、良きにつけ悪しきにつけ、戦後新宿の商業の先駆けとなった。東口の中村屋横にできたハーモニカ横丁ではカストリ焼酎が売られ、カストリ文化の名も生まれた。 ただし、政府による闇撲滅運動が始まると、1950年頃までには新宿から闇市は姿を消し、小売店も次々と再開または新規開店し、東口を中心に新宿駅を中心とした商店街は戦前にも増して活気で満ちあふれた。そして、1952年には新宿駅が日本一乗換駅が多い駅となった。さらに、1960年代にかけて、丸井、小田急、京王などの百貨店が続々と進出し、現在見られるような新宿の商業地の風景が作られた。 1960年代に入ると人びとにもゆとりが生まれ、新宿は商業の急激な発展とともに、娯楽・演劇の拠点としても戦前以上の賑わいをみせる。その中心となったのが、戦災で焼失した新宿駅北方の地の一角、すなわち、歌舞伎町である。歌舞伎町を中心に数々の映画館が建ち並び、1956年には新宿コマ劇場がオープンし大衆の人気を集め、1964年には紀伊國屋ホールが開場し若手演劇人の登竜門となった。そしてこの頃から、アングラ演劇も盛んになり、新宿は独自のサブカルチャーの発信地としての地位を確立し、ジャズ喫茶、歌声喫茶などの喫茶店には多くの若者が交流の場を求めた。 学生運動が盛んになった1969年は、新宿周辺で盛んにデモ活動が行われた。5月14日には新宿駅西口地下広場で続けられていたベトナム戦争反対を訴えるフォークソング集会が警察によって強制解散となり、5月28日には若者達と機動隊が衝突する「新宿西口反戦フォークゲリラ事件」が発生した。10月21日の国際反戦デーでは、新宿付近のデモ参加者が暴徒化。新宿騒乱と呼ばれる事態に発展した。新宿駅が破壊されたほか、東口周辺では乗用車が放火される騒ぎも起きた。さらに11月16日には佐藤首相の訪米に反対するデモが膨張し、新宿東口に一帯に群衆約8000人が集結。新宿三丁目交差点付近では火炎瓶を投げる暴徒にガス銃で機動隊が応戦する騒ぎとなった。この一連の事件により西口地下広場は「通路」とみなされて一切の集会が禁止されるようになるなど、若者が集まりにくい環境が生まれ、1973年の渋谷PARCO開業などを機に若者文化の中心は渋谷へと移っていった。一方、新宿に乗り入れる各鉄道路線での沿線人口激増を背景として新宿駅の巨大化と各百貨店の盛況は続き、下記のような西口での大規模開発も進行したことで、新宿は多様な年代層が集まる巨大商業・ビジネス拠点としての機能が強化されていった。
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