戦後初の三冠王とは? わかりやすく解説

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戦後初の三冠王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:29 UTC 版)

野村克也」の記事における「戦後初の三冠王」の解説

4年目1957年には山内和弘毎日)、中西太西鉄)ら並み居るスラッガー抑え本塁打王タイトル獲得杉浦忠広瀬叔功皆川睦雄と共に南海黄金時代大きく貢献した南海1959年1961年1964年1965年1966年リーグ優勝そのうち1959年1964年日本一になっている1960年中原宏紹介西宮鉄工所を営む家の娘と見合いをし結婚翌年には長男誕生する夫人野村体調管理気を遣い、特に食事に関して年間通じて献立計画して夏場胃腸の調子崩さないように配慮した甲子園での阪神戦のたびに西宮野村邸を訪れて親しく付き合っていた王貞治は、1960年代野村家様子を「ボク家庭もつんなら、ノムさんみたいにのんびりしてこういう家庭がいいね。(ナイター為に二時ごろまで寝てて、奥さん全部ちゃんとやってくれるんだから。野球だけやってればいいんだからね」と語っており、野村自身もまた1965年5月の『週刊ベースボール』の取材に対して「(夫人の)料理天下一品やもんね。スタミナつけてバリバリ打つように操縦されてるようなもんや」と語り同年12月刊行された初の自著中でも「僕が安心してプレーできるというのも家庭というバックボーンお蔭である」と述べていた。また夫人は、捕手四番打者としての重責思い悩む野村自家付き合いのある天台宗高僧葉上照澄相談するよう勧め、これにより野村精神的なスランプ打開成功し以後上は野村後援者となった。 こうして私生活安定得た野村は、迎えた1961年シーズン中田昌宏阪急)と並ぶ29本塁打放って4年ぶりに本塁打王獲得同年捕手としてB.ハリス以来24年ぶり2人目、戦後初となるMVP受賞したこの年から8年連続本塁打王獲得するなど、以降打撃タイトル常連になっていった。1962年別当薫毎日)の持っていたパ・リーグ記録シーズン43本塁打1950年)を抜く44本を記録この年からは打点王6年連続獲得し6年連続二冠王となる。1963年には小鶴誠松竹ロビンス)のプロ野球記録シーズン51本塁打同上)を破る52本を残し340塁打135打点当時パ・リーグ記録52本塁打翌年巨人王貞治55本を打ったことによりプロ野球記録としては更新されたが、パ・リーグ記録として2001年近鉄タフィ・ローズ55本を打って更新するまで長く残っており、捕手として50本以上打った選手メジャーリーグ含めて野村だけである。また、1985年ロッテ落合博満52本塁打記録したが、これも日本出身同国選手における最多本塁打記録であり落合最多タイとして記録並んだ。そして2021年終了時においても未だに破られてない。さらに同年盗塁阻止率でもキャリアハイの.524を記録するなど、パ・リーグ代表する強肩強打捕手として名を馳せた1964年には3年連続二冠王達成しながらリーグ21位の.262という打率低さ理由減俸されている。この減俸当時プロ野球史上最多本塁打山内一弘293本塁打に迫ることが刺激になったと後に伝わる。 1965年には戦後初の三冠王に輝く。捕手三冠王メジャーリーグでも前例がなく、鶴岡は「捕手という重労働の中で、ノム三冠王をものにした。それだけに、ほかの選手がやる以上にりっぱなものです。捕手三冠をとったのは、もちろん世界で初めてです」と祝辞述べている。ところが、11月17日この年限り退団する鶴岡代わる監督就任したばかりの蔭山和夫急死してしまう(南海蔭山新監督急死騒動)。蔭山の訃報が伝わると、選手コーチチーム関係者集まって緊急会議開かれその中で鶴岡監督へ復帰してもらうべきという意見出された。選手一部からは「辞めた人に今さら帰って来てもらうのはどうか」という声も上がったが、野村は「親分南海もどってくれんのなら、ワシ野球はやめや」と言い切ってその場をまとめると、チーム最年長杉山光平と共に鶴岡邸に赴き南海への復帰懇願した。蔭山の死で激しく気落ちした鶴岡南海への復帰躊躇したが、蔭山の密葬執り行われ19日には野村説得聞き入れて復帰受諾し20日催され球団葬で野村は「蔭山さん親分帰ってきて下さいました。蔭山さん遺志を僕たちは立派に継いでいきます。どうか安心してお眠り下さい」と弔辞述べた1968年からはコーチ兼任となる。ジョージ・アルトマン東京)と僅か1打点差で打点王逃し連続打点王二冠王途切れる同年にはパ・リーグ初の3四球となる103四球38敬遠リーグ記録更新したが、オフ母親逝去。また鶴岡この年限り監督退任した1969年野村シーズン中二度大怪我見舞われた。一度目は5月29日の対阪急戦での負傷で、この影響により6月4日から26日にかけて、南海当時のパリーグワースト記録となる15連敗(1引分を含む)を喫した二度目7月12日の対近鉄ダブルヘッダー第1試合守備で、走者岩木康郎本塁突入した際に強く体当たりされて左肩を痛めて負傷退場しオールスター出場辞退した怪我影響最終成績22本塁打52打点終わり1961年以来守り続けてきた本塁打王阪急長池徳士に、さらにはレギュラー獲得以来13年連続守り続けてきたベストナインの座も阪急岡村浩二明け渡したチーム大黒柱である野村故障主因となって南海戦後初の最下位終わり飯田徳治監督責任取ってこの年限り辞任した

※この「戦後初の三冠王」の解説は、「野村克也」の解説の一部です。
「戦後初の三冠王」を含む「野村克也」の記事については、「野村克也」の概要を参照ください。

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