戦後初の三冠王
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4年目の1957年には山内和弘(毎日)、中西太(西鉄)ら並み居るスラッガーを抑え本塁打王のタイトルを獲得。杉浦忠、広瀬叔功、皆川睦雄らと共に南海の黄金時代に大きく貢献した。南海は1959年、1961年、1964年、1965年、1966年にリーグ優勝、そのうち1959年と1964年は日本一になっている。 1960年に中原宏の紹介で西宮で鉄工所を営む家の娘と見合いをし結婚。翌年には長男が誕生する。夫人は野村の体調管理に気を遣い、特に食事面に関しては年間を通じて献立を計画して夏場に胃腸の調子を崩さないように配慮した。甲子園での阪神戦のたびに西宮の野村邸を訪れて親しく付き合っていた王貞治は、1960年代の野村家の様子を「ボクも家庭もつんなら、ノムさんみたいにのんびりしてるこういう家庭がいいね。(ナイターの為に)二時ごろまで寝てて、奥さんが全部ちゃんとやってくれるんだから。野球だけやってればいいんだからね」と語っており、野村自身もまた1965年5月の『週刊ベースボール』の取材に対して「(夫人の)料理は天下一品やもんね。スタミナつけてバリバリ打つように操縦されてるようなもんや」と語り、同年12月に刊行された初の自著の中でも「僕が安心してプレーできるというのも、家庭というバックボーンのお蔭である」と述べていた。また夫人は、捕手兼四番打者としての重責に思い悩む野村に自家と付き合いのある天台宗の高僧・葉上照澄に相談するよう勧め、これにより野村は精神的なスランプの打開に成功し、以後葉上は野村の後援者となった。 こうして私生活の安定を得た野村は、迎えた1961年シーズンに中田昌宏(阪急)と並ぶ29本塁打を放って4年ぶりに本塁打王を獲得。同年に捕手としてはB.ハリス以来24年ぶり2人目、戦後初となるMVPを受賞した。この年から8年連続本塁打王を獲得するなど、以降は打撃タイトルの常連になっていった。1962年、別当薫(毎日)の持っていたパ・リーグ記録のシーズン43本塁打(1950年)を抜く44本を記録。この年からは打点王も6年連続で獲得し、6年連続二冠王となる。1963年には小鶴誠(松竹ロビンス)のプロ野球記録シーズン51本塁打(同上)を破る52本を残し、340塁打・135打点は当時のパ・リーグ記録。52本塁打は翌年に巨人の王貞治が55本を打ったことによりプロ野球記録としては更新されたが、パ・リーグ記録としては2001年に近鉄のタフィ・ローズが55本を打って更新するまで長く残っており、捕手として50本以上打った選手はメジャーリーグを含めても野村だけである。また、1985年にロッテの落合博満も52本塁打を記録したが、これも日本出身の同国籍選手における最多本塁打記録であり落合も最多タイとして記録に並んだ。そして2021年終了時においても未だに破られてない。さらに同年は盗塁阻止率でもキャリアハイの.524を記録するなど、パ・リーグを代表する強肩強打の捕手として名を馳せた。 1964年には3年連続の二冠王を達成しながらリーグ21位の.262という打率の低さを理由に減俸されている。この減俸と当時のプロ野球史上最多本塁打の山内一弘の293本塁打に迫ることが刺激になったと後に伝わる。 1965年には戦後初の三冠王に輝く。捕手の三冠王はメジャーリーグでも前例がなく、鶴岡は「捕手という重労働の中で、ノムは三冠王をものにした。それだけに、ほかの選手がやる以上にりっぱなものです。捕手で三冠をとったのは、もちろん世界で初めてです」と祝辞を述べている。ところが、11月17日にこの年限りで退団する鶴岡に代わる新監督に就任したばかりの蔭山和夫が急死してしまう(南海蔭山新監督急死騒動)。蔭山の訃報が伝わると、選手・コーチらチーム関係者が集まって緊急会議が開かれ、その中で鶴岡に監督へ復帰してもらうべきという意見が出された。選手の一部からは「辞めた人に今さら帰って来てもらうのはどうか」という声も上がったが、野村は「親分が南海にもどってくれんのなら、ワシも野球はやめや」と言い切ってその場をまとめると、チーム最年長の杉山光平と共に鶴岡邸に赴き南海への復帰を懇願した。蔭山の死で激しく気落ちした鶴岡は南海への復帰を躊躇したが、蔭山の密葬が執り行われた19日には野村の説得を聞き入れて復帰を受諾し、20日に催された球団葬で野村は「蔭山さん、親分も帰ってきて下さいました。蔭山さんの遺志を僕たちは立派に継いでいきます。どうか安心してお眠り下さい」と弔辞を述べた。 1968年からはコーチ兼任となる。ジョージ・アルトマン(東京)と僅か1打点差で打点王を逃し、連続打点王と二冠王が途切れる。同年にはパ・リーグ初の3桁四球となる103四球と38敬遠でリーグ記録を更新したが、オフに母親が逝去。また鶴岡がこの年限りで監督を退任した。 1969年、野村はシーズン中に二度の大怪我に見舞われた。一度目は5月29日の対阪急戦での負傷で、この影響により6月4日から26日にかけて、南海は当時のパリーグワースト記録となる15連敗(1引分を含む)を喫した。二度目は7月12日の対近鉄ダブルヘッダー第1試合の守備で、走者の岩木康郎が本塁に突入した際に強く体当たりされて左肩を痛めて負傷退場し、オールスターも出場を辞退した。怪我の影響で最終成績は22本塁打、52打点に終わり、1961年以来守り続けてきた本塁打王は阪急の長池徳士に、さらにはレギュラー獲得以来13年連続で守り続けてきたベストナインの座も阪急の岡村浩二に明け渡した。チームの大黒柱である野村の故障が主因となって、南海は戦後初の最下位に終わり、飯田徳治監督は責任を取ってこの年限りで辞任した。
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