戦後処理と結果、影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/27 01:05 UTC 版)
「バルカン戦争」の記事における「戦後処理と結果、影響」の解説
ブカレスト条約によってブルガリアはマケドニアの大半を喪失しさらに南ドブルジャをルーマニアへ割譲、エディルネをオスマン帝国に返還しマケドニア北東部(後に「ピリン・マケドニア」と呼ばれる)と、エーゲ海への出口となる西トラキアを辛うじて確保するにとどまった。一方で、セルビアは北・中マケドニア(後に「ヴァルダル・マケドニア」と呼ばれる)およびノヴィ=パザル地方を獲得。モンテネグロはセルビアと共にコソボ地方を分割した。ギリシアは南マケドニア(後に「エーゲ・マケドニア」と呼ばれる)とテッサリアなどエーゲ海沿岸を獲得した。第一次戦争の段階で自治権を獲得していたアルバニアが正式に新独立国として発足した。 この結果、最大の犠牲を払ったブルガリアはそれに見合う報酬、特にマケドニアに対する要求の殆どが叶わず大きな不満を残した。またオスマン帝国はヨーロッパ側領土を一気に失い、国際政局での立場も大きく後退し危機感を募らせた。両国は接近を見せ、これが続く第一次世界大戦の一つの要因となる。1903年にイリンデン蜂起(英語版)を起こしていたマケドニアのスラヴ系住民(現在の北マケドニアの人々)は権利を完全に無視された形となった。また、コソヴォ地方(アルバニア語でコソヴァ)がセルビアとモンテネグロによって分割された事はこの地域の多数派を占めていたアルバニア人にとっては不満の種であり、後に起こる「コソボ紛争」の出発点を形作ったと言える。
※この「戦後処理と結果、影響」の解説は、「バルカン戦争」の解説の一部です。
「戦後処理と結果、影響」を含む「バルカン戦争」の記事については、「バルカン戦争」の概要を参照ください。
- 戦後処理と結果、影響のページへのリンク