マイケル・ポランニーとは? わかりやすく解説

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ポランニー【Polanyi】

読み方:ぽらんにー

[一]Karl 〜)[1886〜1964]ハンガリー生まれ経済学者主として米国活躍物資交換形態として互酬再分配交換の3様式摘出し市場社会非市場社会考察加えて経済人類学体系化した。著「大転換」「経済文明」など。

[二]Michael 〜)[1891〜1976]ハンガリー生まれ物理化学者哲学者[一]の弟。主として英米活躍し結晶構造などの研究行った哲学転向したのちは、暗黙知の提唱など独自の理論を展開。著「暗黙知次元」「個人的知識」など。


マイケル・ポランニー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/05 07:57 UTC 版)

マイケル・ポランニー

マイケル・ポランニー: Michael Polanyi ハンガリー語: Polányi,Mihályポラーニ・ミハーイ), 1891年3月11日 - 1976年2月22日)は、ハンガリー出身のユダヤ系ハンガリー人物理化学者・社会科学者・科学哲学者。日本語での表記にはマイケル・ポラニーもある。暗黙知層の理論創発境界条件と境界制御・諸細目の統合と包括的全体、等の概念を1950年代に提示した。

生涯

1891年ブダペストでポランニー家の第5子として生まれる。中学校はエリート養成校だったミンタ・ギムナジウムハンガリー語版に通い、ブダペスト大学の医学部で学んだ。大学生時代は、兄のカール・ポランニーが委員長を務めるガリレイ・サークルに参加し、社会民主運動にも関わる[1]1912年、4月~6月カールスルーエ大学にブレディッヒ教授を頼って遊学。化学への関心を深めた。[要出典]

ハンガリーに戻ったのちの 1913年ブダペスト大学卒業。医学博士号を取得。[要出典]1914年にブダペスト大学を卒業した[1]同年に再びカールスルーエ大学に移籍するが、このとき第一次世界大戦勃発。既にこの頃アルベルト・アインシュタインと文通をしていた。[要出典]第一次世界大戦にオーストリア=ハンガリー軍の軍医としてセルビア方面に従軍し、1916年に負傷して療養生活を送る。この時期に博士論文を書いた[1]1917年にブダペスト大学から化学博士号を授与された。[要出典]

ハンガリーでは1918年にアスター革命ハンガリー語版が起きてカーロイ・ミハーイハンガリー語版政権が成立し、マイケルは保健相の秘書として働いた。政権が短命に終わりハンガリー・ソヴィエト共和国が成立すると学業に戻り、同国の崩壊によって1920年にドイツに亡命した。ドイツではカイザー・ヴィルヘルム学術振興協会のパルプ化学研究所に勤め、1923年に同協会の生物化学および電気化学研究所に移る。同年にカトリックに改宗し、マグドルナ・エルジェーベト・ケメーニ(Magda Elizabeth Kemeny)と結婚し、1929年に息子のジョン・ポランニーが誕生した[2]1928年レオ・シラードユージン・ウィグナージョン・フォン・ノイマンとともにソ連問題研究会をつくった。[要出典]

ナチスの台頭によって研究が難しくなったマイケルは、1933年に家族と共にイギリスのマンチェスターに移住した。マンチェスター大学の物理化学の教授として1948年まで勤め、1944年にロイヤル・ソサエティのメンバーに選ばれ、当時の教え子だったユージン・ウィグナーメルヴィン・カルヴィンは後にノーベル賞を受賞した。ドイツ時代に交流があった化学者の堀内寿郎もイギリスに渡り、マイケルと堀内はいくつかのプロジェクトで研究をした[3]

1948年に、研究のフィールドを社会科学に移した。その理由は、科学における自分の発見の過程を理論的・哲学的に整理しようとしたという説がある。また、1935年にソ連を訪問した際にニコライ・ブハーリンと会見したことを原因とする説もある[注釈 1]。マイケルは暗黙知の概念を見出し、科学研究を政治的立場やイデオロギーから解放することを模索するようになった。マンチェスター大学では社会科学教授として1948年から1958年、オックスフォード大学では主任研究員として1959年から1961年まで歴任した。1962年にアメリカ芸術科学アカデミーの外国人名誉会員に選ばれ、同年から1963年にバロアルトの研究所、1964年にデューク大学、1965年から1966年にはウェズリアン大学に勤めた。1975年、ノーサンプトンの病院にて死去した[4]

一族

次兄は経済人類学者のカール・ポランニー。姉のラウラ・ポラーニ=シュトリカードイツ語版は先進的な幼稚園経営者であり、ブダペスト大学で最初に博士号を得た女性だった[5]。息子は物理化学者のジョン・ポランニーである。

業績

化学、医学、生理学、物理学、哲学など多岐に渡る研究分野でノーベル賞級の研究成果を残したと言われる。息子のジョン・ポランニーは1986年にノーベル化学賞を受賞しており、ジョンの研究もマイケルとの共同研究の成果だった[6]

マンチェスター大学の物理化学教授時代の研究分野は、吸着のポテンシャル説(最初の論文は1914年に書かれて50年間近く評価されなかった。現在ではシリカゲルや活性炭等の消臭効果等で知られている)、X線解析、結晶構造化学反応速度論などだった[3]。物理化学者として219編の論文と1冊の著書を残した。 化学と物理学を明確に分けた論文(反応のポテンシャル曲面論)を認めさせた点でも高く評価されている[要出典]

科学哲学者としては暗黙知層の理論を提示し、新たな哲学を構築した。モーリス・メルロー=ポンティ以外、西欧哲学とはあまり接点がない。

主要著書

脚注

注釈

  1. ^ ブハーリンは科学に自立性を認めず、科学は社会主義思想に奉仕すべきと主張したため、マイケルは社会主義を懐疑するようになったという[3]

出典

  1. ^ a b c 木村 2019, p. 164.
  2. ^ 木村 2019, pp. 164–165.
  3. ^ a b c 木村 2019, p. 165.
  4. ^ 木村 2019, pp. 165–166.
  5. ^ 木村 2019, p. 180.
  6. ^ 木村 2019, p. 166.

参考文献

  • 木村香織『亡命ハンガリー人列伝 脱出者・逃亡犯・難民で知るマジャール人の歴史』パブリブ〈世界ディアスポラ列伝〉、2019年。 

関連文献

  • 『現代思想 特集マイケル・ポランニー』 青土社、1986年03
  • R・ゲルウィック 『マイケル・ポラニーの世界』 長尾史郎訳、多賀出版、1982
  • 大塚明郎 『創発の暗黙知 - マイケル・ポランニー - その哲学と科学』 青玄社、1987年10
  • 栗本慎一郎 『意味と生命 - 暗黙知理論から生命の量子論へ』 青土社、1988年06 ISBN 4-7917-5038-1
  • グラハム・ダンスタン・マーティン 『暗黙知の領野』 青土社、1995年04
  • 佐藤光 『マイケル・ポランニー 「暗黙知」と自由の哲学』 講談社、2010年01 ISBN 4-0625-8457-3

関連項目

外部リンク




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