ヴァーラーナシー条約とローヒラー戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/28 10:21 UTC 版)
「アワド太守」の記事における「ヴァーラーナシー条約とローヒラー戦争」の解説
1764年の敗戦以降、アワドはしだいにイギリスに従属するようになっていき、1772年にマラーター勢力がアワドの保護していたローヒルカンド地方を侵略し、アワド太守シュジャー・ウッダウラはイギリス東インド会社に援助を求めた。ローヒルカンドとは現ウッタル・プラデーシュ州北西部のことで、ムガル帝国の皇帝アウラングゼーブの死後、アフガン系ローヒラー族が支配していたためこう呼ばれ、ローヒラー族はマラーターの侵入の撃退のためにアワドと協定を結び、その撃退の代償として400万ルピーの支払いを約束していた。 こうして、1773年9月7日、アワドとイギリスの間にヴァーラーナシー条約(ベナレス条約)が締結され、アワド領にイギリス東インド会社の軍隊が駐留することとなり、その費用月額21万ルピーはすべてアワド側の負担とされた。このヴァーラーナシー条約はイギリスが藩王国化する際の条約と似たものであり、1773年がアワドの藩王国化した年とする場合もあるが、1801年の軍事保護条約で藩王国化したとされている。 その後、アワドはイギリスの援助により、マラーター勢力をローヒルカンドから駆逐したが、ローヒラー族は約束された支払いの履行に応じなかったため、1774年にアワドはイギリスの援助のもとロヒルカンドに侵略し、ローヒルカンドのほぼ全域をアワド領に併合した(ローヒラー戦争)。 アワドが徐々にイギリスに従属していくなか、1775年1月26日にシュジャー・ウッダウラは死亡した。
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