アワドの藩王国化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/28 10:21 UTC 版)
だが、ワズィール・アリー・ハーンはラクナウのイギリス駐在官らとすぐさま不仲となって公然と反抗するようになった。これに対し、イギリス側は宮廷の派閥間対立を利用し、その廃位を企てた。 1798年1月21日、ワズィール・アリー・ハーンはイギリスによって廃位され、アーサフ・ウッダウラの弟のサアーダト・アリー・ハーン2世が太守位に据えられた。 サアーダト・アリー・ハーン2世は太守位を手にしたものの、父シュジャー・ウッダウラの時代からのイギリス軍の駐留費は増額され続けており、彼の代にその滞納額は莫大な額となっていた。アワドの情勢は危機に瀕するところとなった。 このため、1801年11月10日にサアーダト・アリー・ハーン2世はイギリスと軍事保護条約を締結させられた。この条約ではイギリスの保護軍を増強させるかわり、ナワーブの軍隊を事実上解体させ、イギリスはアワドの好きな場所に軍隊を駐屯させる権利が与えられた。 また、アワド側は駐留費の滞納を理由に、イギリスにアワドの約半分の領土をイギリスに割譲させられることとなった。このとき、割譲されたのはローヒルカンド地方、アラーハーバード、ファッルハーバード、ファテーガル、カーンプル、ゴーラクプル、アーザムガルなどの都市を含んだ下ドアーブ地方など、アワドの中心地から東西にかけての肥沃な土地であった。 アワドはこれによりかつてない減収に苦しみ、結果的に地方豪族であるタールクダールへの依存を強めた。こうして、アワドはイギリスに従属する藩王国となった(アワド藩王国)。
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