アウラングゼーブとの対立と死
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「ジャスワント・シング」の記事における「アウラングゼーブとの対立と死」の解説
だが、ジャスワント・シングはアウラングゼーブに帰順したものの、両者の対立は長く続くこととなった。 ジャスワント・シングは戦争後、マールワー、グジャラート、ペシャーワルなどの太守を歴任したが、彼の領土であるマールワール王国はアウラングゼーブに付け狙われた。 1667年5月8日、ジャスワント・シングの息子プリトヴィーラージ・シングは、アウラングゼーブが贈った毒を仕込んだ衣装を着たことで死亡した。ジャスワント・シングは有能な後継者でもあったプリトヴィーラージ・シングが暗殺されたことで、大きなショックを受け、それを乗り切ることが出来なかったという。 1678年11月28日、ジャスワント・シングはペシャーワル近郊のジャムルードで死亡した。北西方面のアフガン勢力に対しての問題を処理していたさなかであった。
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