アウラングゼーブ及びミール・ジュムラーとの戦い
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「シャー・シュジャー (ムガル皇子)」の記事における「アウラングゼーブ及びミール・ジュムラーとの戦い」の解説
その後、シャー・シュジャーはアウラングゼーブがダーラー・シコーの追撃戦に向かったことを知って、ベンガルからアーグラへと向けて進軍した。11月、ダーラー・シコー追討中だったアウラングゼーブがその知らせを聞き、彼もまたアーグラへと向かって進軍した。 そして、1659年1月5日、シャー・シュジャーはアラーハーバード付近のカジュハでアウラングゼーブとの戦いに臨んだ(カジュハの戦い)。戦闘は最初の方はシャー・シュジャーの優勢で、またアウラングゼーブの後陣をジャスワント・シングが襲撃するなどしたため、アウラングゼーブの軍は混乱した。 しかし、アウラングゼーブの有力武将ミール・ジュムラーが何とかアウラングゼーブに冷静さを取り戻させたこと、そしてアウラングゼーブの強運さによって、シャー・シュジャーは戦いに敗れてしまった。アウラングゼーブが使った方法はダーラー・シコーを敗北に導いた方法で、内通していた家臣がシャー・シュジャーに象から降りるように進言し、シャー・シュジャーは不運にもそれに従ってしまった。 その後、アウラングゼーブは深追いせずアーグラへと引き上げため、シャー・シュジャーはあまり多くの兵を失わず、アラーハーバードに後退して陣を構えた。これを知ったアウラングゼーブは長男のスルターンと武将ミール・ジュムラーを派遣した。 シャー・シュジャーはベンガル地方のラージャを苛めていたので、これに乗じて反乱を起こすのではないか、そしてミール・ジュムラーを敵に回すことを恐れていた。そのため、彼はアラーハーバードの陣を引き払い、ヴァーラーナシー、パトナへ行き、モンギールへと向かい、そこで踏みとどまってミール・ジュムラーの軍勢と戦う覚悟を決め、陣地を築き町と川と山まで通じる塹壕を掘った。 だが、ミール・ジュムラーがガンジス川沿いにゆっくり下ってくるのは陽動作戦で、ミール・ジュムラーはスルターンとともにガンジス右岸の山地のラージャを抱き込んで、強行軍でシャー・シュジャーの行く手をふさぐためラージマハルへ接近しつつある、という情報が届いた。そのため、彼はモンギールを捨て、ラージマハルへと向かい、そこに陣を構えた ミール・ジュムラーは到着後、ラージマハルに攻撃をかけ、シャー・シュジャーは5、6日のあいだ防戦した。だが、ミール・ジュムラーの大砲が絶え間なく活躍し、雨期の始まりもあって、夜陰に乗じてラージマハルから逃げた。ミール・ジュムラーは伏兵を警戒し追撃を行わずに翌朝に延ばしたため、その夜明け前に雨が降り出して三日も続いたので、ミール・ジュムラーは動けず、そこで冬越しすることとなった。 一方、シャー・シュジャーは軍隊を強化したり、あるいは低ベンガル地方から大砲を取り寄せたりしたばかり、この地に住んでいたポルトガル人を味方に付けることに成功した。また、ミール・ジュムラーと不仲になった皇子スルターンが味方に駆け付け、シャー・シュジャーに忠誠を誓った。シャー・シュジャーはスルターンに自分の娘グルルフ・バーヌー・ベーグムを嫁がせたが、アウラングゼーブやミール・ジュムラーによる自分を捕えるための策謀ではないのかと疑い全幅の信頼を置けず、スルターンはやがて離れてしまった。 その後、ミール・ジュムラーのもとにおびただしい数の大軍が送られ、軍を整えていたシャー・シュジャーは劣勢となり、やがてガンジス川の川の両岸及び河口付近の島であるタンダーに包囲された。
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