アウラングゼーブとの対決
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「ダーラー・シコー」の記事における「アウラングゼーブとの対決」の解説
ダーラー・シコーにとって、皇位継承戦争における最大のライバルはやはり弟のアウラングゼーブであった。デカン太守であったアウラングゼーブは彼と最も対立していた人物であり、1657年末にはムラード・バフシュと同盟を組んで、デリーへと向かっていた。 ダーラー・シコーはアウラングゼーブの右腕ともいえる将軍ミール・ジュムラーの家族を人質にとっていた。だが、ミール・ジュムラーは依然としてアウラングゼーブの味方であり、アウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍はアーグラへと向かっているので、ジャスワント・シングとカーシム・ハーンをその迎撃に向かわせた。 1658年4月15日、ダーラー・シコーの軍はアウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍とウッジャイン近郊のナルマダー川を挟んで戦闘を行った(ダルマートプルの戦い)。戦闘は最初の方はジャスワント・シングの奮闘により、ダーラー・シコー軍の方が優勢だったが、ムラード・バフシュの勇猛さに怯えたカーシム・ハーンが逃げ出すこととなり、ジャスワント・シングも大勢の部下が死亡したことで撤退せざるを得なかった。 ダーラー・シコーはこれに怒り狂い、激しく激怒した彼はミール・ジュムラーが兵力や大砲、軍資金を提供したとして、その息子ムハンマド・アミール・ハーンを殺してやりたいとまで言った。だが、シャー・ジャハーンがなだめようとしたため、これは実行されなかった。
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