アウラングゼーブの後継者として
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「アーザム・シャー」の記事における「アウラングゼーブの後継者として」の解説
1669年1月3日、アーザムは父の兄ダーラー・シコーの娘ジャハーンゼーブ・バーヌー・ベーグムと結婚した。これはアウラングゼーブの後継者としての地位を確立させるものであった。また、アーザムは各地の太守にも任命され、ベラール、マールワー、ベンガルの地を任された。 1679年10月6日、アーザムは父アウラングゼーブに呼び戻され、ベンガルの首府であるダッカを去り、ベンガル太守位はイブラーヒーム・ハーン2世に引き継がれた。 1681年8月2日、アウラングゼーブはアーザムは正式に自身の後継者として指名され、皇太子として他の兄弟より上の立場となった。同年、アーザムはビジャープル王国の君主アリー・アーディル・シャー2世の娘と結婚した。 1685年10月、アウラングゼーブはビジャープル王国を滅ぼすため、アーザムをシカンダル・アーディル・シャーのいるビジャープルへと向かわせ、1686年9月にアーザムはビジャープルを落とした(ビジャープル包囲戦)。 1701年から1706年まで、アーザムはグジャラート太守にも任命され、グジャラートの首府であるアフマダーバードに滞在していた。 同年にアーザムはグジャラート太守の任を解かれたのち、アウラングゼーブがいるアフマドナガルへと移動していた。このとき、アウラングゼーブは老体となり、すっかり弱っていた。 1707年2月、アーザムはアウラングゼーブの命により、マールワーへと移動させられた。一方、弟のカーム・バフシュもまた、ハイダラーバードへと移動させられていた。アウラングゼーブは自分の死後に「鎖を解かれた2頭のライオン」を一緒にしておくような危険な行為はできなかった。
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