即位と弟たちとの争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/31 08:20 UTC 版)
「バハードゥル・シャー1世」の記事における「即位と弟たちとの争い」の解説
1707年3月3日、アウラングゼーブがデカンで死ぬと、同月27日あるいは29日にムアッザムはカーブルにおいてアウラングゼーブの後継者として帝位を宣し、勇猛な王を意味する「バハードゥル・シャー(1世)」を号した。ただし、帝位を宣したのは同年5月2日、ペシャーワルだとする場合もある。 その後、ムアッザムはすぐさまアフガニスタンを離れ、アーグラに到着したのち、国庫を押さえた。 しかし、その弟アーザムとカーム・バフシュはこれに反対し、彼らもまた帝位を宣し、公然と各地で反抗し始めたため、バハードゥル・シャー1世はこれらを討伐することを決めた。 同年6月19日、バハードゥル・シャー1世はアーザムの軍をジャージャウーの戦いで破り、彼とその息子ビダル・シャーを殺害した(別の息子ワッラー・ジャーも殺した)。別の弟カーム・バフシュはデカンで抵抗していたが、1709年1月13日にハイダラーバードで彼を打ち破り、翌日にカーム・バフシュはこの戦で受けた傷がもとで死んだ(ハイダラーバードの戦い)。 こうして、バハードゥル・シャー1世は、弟2人と甥2人を殺害し、その王座を揺るぎないものにした。
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