即位と廃位
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1807年、従兄の第28代セリム3世が西洋化改革を推進したために保守派の反発にあい、イェニチェリによって廃位されたのを受けて擁立され即位した。 しかし、セリム3世の退位によってイスタンブールから退避したセリム3世派の人々は、ブルガリア北部のルーセを支配するアーヤーン(地方名士)・アレムダル・ムスタファ・パシャを頼っていた。彼らの要請を受け入れたアレムダルはセリム3世の復位を掲げて挙兵し、翌1808年7月下旬にイスタンブールに入った。 ムスタファ4世は他の皇子の即位によって自身の帝位や命が脅かされることを怖れ、幽閉中のセリム3世と弟のマフムトを殺害するように命じた。結局セリム3世の殺害には成功したものの、マフムトはなんとか生き延び、同日イスタンブールに入ったアレムダルらは彼をマフムト2世を担ぎ上げて即位させた。弟の即位によってムスタファ4世は廃位されて幽閉され、母のシネペルヴェルは反乱軍に捕らえられて、ハレムの一室で凌辱された。
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即位と廃位
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1617年に兄のアフメト1世が死去した時、彼の皇子たちがスルタンになる資格がありその全員がトプカプ宮殿に住んでいたが、イスラム長老エサト・エフェンディと大宰相代理のソフ・メフメト・パシャらが率いる宮廷派閥は、アフメトの息子オスマンの代わりにムスタファを即位させることを決めた。この時ソフ・メフメト・パシャは、オスマン皇子は幼く、不人気になると主張し、一方で黒人宦官ムスタファ・アガはムスタファ皇子の精神的な問題を理由に反対したが、結局前者の意見が採用された。 ムスタファの即位によって、いままでのオスマン帝国のスルタンの継承の法則が変わり、初めて息子ではなく兄弟に王位が引き継がれた。ムスタファの母親の母のハリメ・スルタンは息子の精神状態がよくなかったのをいいことに母后として大きな力を行使した。 その一方で定期的な社会的接触がムスタファの精神的健康を改善することが期待されたが、全くの期待はずれであった。彼は大宰相の髭やターバンを引っ張ったりするなどし、当時の史家のイブラヒム・ペチェビは「このような状況は国民に見られており、心理的に混乱していることを見破られていた。」と記録している。彼の行動は変わらなかったため、翌1618年、在位3ヶ月で退位させられることとなった。
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