即位と権力強化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/17 03:02 UTC 版)
「デシデリウス (ランゴバルド王)」の記事における「即位と権力強化」の解説
ブレシアで生まれたデシデリウスは当初トゥスキアのドゥクスであった。756年にランゴバルド王アイストゥルフが死ぬと、その王位を継いだ。この時、アイストゥルフの兄であり前の王でもあったラトキスが隠棲先のモンテ・カッシーノを出て王位奪回を試みたが、デシデリウスは教皇ステファヌス3世の助力を得てこれを速やかに鎮圧した。戴冠式に際して、デシデリウスは教皇に、聖座に属していた都市を返還し、教皇領をより拡大させることまで約束していた。 757年、デシデリウスは自身の権力強化に向けて動き出した。すなわち、強力なイタリア中部のスポレート公国、南イタリアのベネヴェント公国を服従させようとしたのである。かつてのランゴバルド王リウトプランド(英語版)の親族であったベネヴェント公リウトプランドは、デシデリウスを成り上がり者として軽蔑し、彼の王位継承を認めなかった。そればかりかランゴバルド王から離れてフランク王ピピン3世に従うといってデシデリウスを脅したが、デシデリウスは東ローマ帝国海軍(英語版)の支援を受けてリウトプランドを屈服させ、公国をフリウーリのアレキス(英語版)に継がせた。さらに同年にはスポレート公アルボイン(英語版)を廃位し、スポレート公国を掌握した。前任者たちと同様に、デシデリウスはイタリア半島におけるランゴバルド王権の拡大に努めたが、ローマ教皇や南イタリアの諸公国との利害対立は避けられなかった。759年8月、デシデリウスは息子アデルキス(英語版)をランゴバルドの共同王として即位させた。 ローマを訪れ聖ペテロの墓で祈りをささげたデシデリウスだったが、そこから帰ると彼は前任者たちと同じような攻撃的志向に回帰した。さらには東ローマ帝国と交渉して、教皇領を削る協定を結ぼうともたくらんでいた。760年、フランク王ピピン3世の使節が訪れ、デシデリウスに教皇から奪った都市の一部を返還するよう説き伏せた。バラクロウによればデシデリウスが教皇の支援を得るためにリウトプランドの征服地の譲渡を申し出たというが、いずれにせよデシデリウスは約束を守らず、征服地を返さぬままだった。ピピン3世はアキテーヌでの戦役に忙殺されていたこともありイタリアへ介入せず、教皇を助けるのではなく教皇とデシデリウスの間の平和を維持する立場に移っていた。
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