即位と死
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「コルマク・コン・ロンガス」の記事における「即位と死」の解説
コルマクは、コンホヴァル亡き後の次期王にと、本国アルスターから迎えられ、コノートを後にする。ところが、帰途についた一団は、平原で遭遇したコノートの強奪隊と諍いをおこす。勝利するものの、鍛冶師のダ・ホカの館で宿泊していたところ、報復にやってきたコノート軍に襲撃され、壮絶な戦いでコルマクも戦死する(『ダ・ホカの館』)。 課せられた禁忌(ゲシュ)のひとつをやぶると、ひきずられるように次々とやぶることになり破滅をもたらす、という常套モチーフが、『ダ・ホカの館』でももちいられている。コルマクは、竪琴弾きのクラフティネ(Craiftine)の妻シュケンブ(Scenb)と不義密通をかさねていた。竪琴弾きは、コルマクの帰還の一団に随行し、その「穴あき頭の琵琶」(あるいは「頭眠らせの小ハープ」)を携えて、報復を図る。この楽器を聴くことじたいがコルマクには禁忌であった。さらに逢瀬の場所アスローンで待ちうけるその女に、クラフティネの弾奏は禁忌を破るようにしむける楽曲であることを警告される。ところがじつは、コルマクはここにたどり着く前に、馬車を洗う女死神バドヴに遭遇し、「これはそのお迎えの馬車だ」と告げられ、死の宣告をされていた。 ダ・ホカの館では、宿泊するコルマクの一団と、襲撃するコノート軍とのあいだで尋常な勝負による激戦が繰り広げられた。フェルグスが現場に到着すると、事おそかりし、コルマクは埋葬されていた。フェルグスが里親(めのと)として育てたのがコルマクだったのに、女王メイヴの口車に乗せられて、まんまと見殺しにしてしまったのだ。
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即位と死
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「トゥパク・アマル (初代)」の記事における「即位と死」の解説
しかし、マンコ・インカは、ピサロに敗れたアルマグロ派のスペイン人兵士をかくまっていたところ、彼らの裏切りによって1544年に殺害され、その後、彼の3人の子どもが次々とインカ皇帝に即位した。最初に即位したのが長子サイリ・トゥパックであったが、彼は1555年、ビルカバンバを離れてスペインに下り、弟のティトゥ・クシが跡を継いだ。ティトゥ・クシは1571年に亡くなったが、死の直前、スペイン人の神父が彼に薬を与えていたため、これを毒殺と考えた先住民は神父たちを殺害し、これが契機となってスペイン勢力はついにインカ帝国残党の完全征服に乗り出した。トゥパク・アマルはティトゥ・クシの死後ただちに皇帝に即位したが、すでに新インカ帝国の勢力は衰微しており、トゥパク・アマルはほとんど何もすることはできなかった。即位から1年あまりのちの1572年4月にはスペイン軍の来襲によって山中の「ビルカバンバのインカ帝国」は滅亡した。トゥパク・アマルは捕らえられて、激しい拷問ののち、同年9月24日にクスコで斬首された。没年齢は26~27歳。
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