アウラングゼーブの死とデカン戦争の終結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 19:07 UTC 版)
「デカン戦争」の記事における「アウラングゼーブの死とデカン戦争の終結」の解説
1706年までに、アウラングゼーブが奪ったマラーターの城塞は、ほとんどがマラーターに奪い返されていた。マラーターが人々の共感や支持を集める一方で、デカン戦争に参加した軍人たちは、いつまでも終わらない戦いに嫌気がさしていた。 アウラングゼーブは晩年、デカン戦争をはじめとする自分の統治が誤りであると思うようになり、激しい後悔に襲われていた。アウラングゼーブは強力な帝国軍がデカンに攻め入れば、デカンと南インドの諸国はすぐさま制圧できると考えていたのだろうが、マラーターによってすべてを打ち砕かれた。 アウラングゼーブは治世の前半、シヴァージー率いるマラーターにさんざん悩まされたもの、新興勢力であるマラーターを過小評価していた面もあった。とはいえ、デカンに最初に介入したのは、ほかならぬアウラングゼーブの曾祖父アクバルであるから、彼だけを責めるのは酷でもある。 また、アウラングゼーブは自分が老い先短く、自分の死後に皇位継承戦争が起こるのではないか心配したと言われている。ことに、アウラングゼーブの長男ムアッザム、三男アーザム、五男カーム・バフシュは仲が悪く、デカン戦争中もいがみ合っていた。アウラングゼーブはこのため、1707年2月にアーザムとカーム・バフシュを帝国の別々の地域に送っている。 同月28日、アウラングゼーブは高熱で倒れ、3月3日の朝に容体が急変し、その日の夕刻に死亡した。アウラングゼーブが死ぬまでに、ムガル帝国の領土は南端部を除くインド全域とアフガニスタンにまたがる広大な版図を領有していた。 だが、アウラングゼーブの死をもって、帝国軍の指揮官たちはデカンからの早期撤退を決め、5月までに全軍を引き上げた。また、マラーターの王子シャーフーも釈放され、帝国軍を離れた。ここにおよそ27年続いたデカン戦争は終わりを告げた。
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