ムガル帝国への介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/10 02:45 UTC 版)
「バーラージー・ヴィシュヴァナート」の記事における「ムガル帝国への介入」の解説
一方、ムガル帝国もまた、アウラングゼーブの死後に3人の息子が争うなど、長期にわたる帝位継承戦争が続いた。この戦争はファッルフシヤルがサイイド兄弟の力を借りて、1713年1月にジャハーンダール・シャーを打ち破り終わったが、ムガル帝国の国力を大きく削いだ。 デリーの実権を握ったサイイド兄弟は、マラーターに対する脅威を払拭しようと考えた。そして、1715年から軍務大臣サイイド・フサイン・アリー・ハーンはデカン総督として着任し、マラーターと戦闘を行った。 1718年7月、バーラージー・ヴィシュヴァナートとフサイン・アリー・ハーンは、ムガル・マラーター間で次のような協定を結んだ。 ムガル帝国はシヴァージー時代の領土をマラーター王国の領土として認める。 ムガル帝国領のデカン6州に関して、チャウタ(諸税の4分の1を徴収する権利)およびサルデーシュムキー(諸税の10分の1とは別に徴収する権利)をマラーターに認める。 マラーター王国はムガル帝国が必要としたとき、騎兵15,000兵を援軍として派遣する。 マラーター王国はデカンにおける略奪及び反乱に歯止めをかけ、毎年100万ルピーを支払う。 また、同年9月にフサイン・アリー・ハーンが皇帝ファッルフシヤルにデリーに帰還するように命じられると、11月にバーラージー・ヴィシュヴァナートは彼に同行し、1719年2月に皇帝の廃位に加担した。ファッルフシヤルはムガル・マラーター間での締結された条約を認めていなかったため、3月に新たな皇帝ラフィー・ウッダラジャートが条約を承認した。 バーラージー・ヴィシュヴァナートは条約が承認されたのちに帰還したが、彼と随行したサルダールらはムガル帝国の弱体化を目にし、デカンを越えて北インド侵略を考えるようになった。彼は北インドを侵略しようとはしなかったが、デカンのチャウタとサルデーシュムキーを効率的に徴収するため、サルダールらにその地域を割り当てて足場を固めた。
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