ムガル帝国への介入とアフガン勢力との交戦
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「マルハール・ラーオ・ホールカル」の記事における「ムガル帝国への介入とアフガン勢力との交戦」の解説
その後、マルハール・ラーオ・ホールカルはインドールを中心に勢力を広げ、1754年にはシンディア家とともに皇帝アフマド・シャーの廃位とアーラムギール2世の擁立に関与するなど、帝位継承を左右するほどとなった。だが、アフガン勢力ドゥッラーニー朝が頻繁に侵入してくるようになり、北進するマラーター勢力と南下するアフガン勢力の衝突は避けることが出来なかった。 1757年1月、アフガン王アフマド・シャー・ドゥッラーニーは帝国の首都デリーを占領し、2月にデリーで虐殺・略奪を行い、その近郊マトゥラーやヴリンダーヴァンでも同様に虐殺を行った。 これに対し、王国宰相バーラージー・バージー・ラーオは弟ラグナート・ラーオをデリーへと派遣し、マルハール・ラーオもこれに随行した。同年8月にデリーの戦いでアフガン勢力を破ったのち、パンジャーブ地方への遠征に赴き、翌年5月の遠征終了までマラーター軍の一角として活動した。 1759年末、アフマド・シャー・ドゥッラーニーがラホールを奪うと、1760年にマラーター王国はヴィシュヴァース・ラーオやサダーシヴ・ラーオ・バーウを指揮官にデリーへ軍勢を派遣、マルハール・ラーオもこれに合流し、8月にデリーを占拠した。その後、11月にパーニーパトにおいて両軍は対峙した。 しかし、1761年1月14日、第三次パーニーパトの戦いでマラーター同盟軍は大敗し、マルハール・ラーオは辛くも逃げ延びることが出来た。この大敗で同盟の結束は緩み、諸侯の独立性が強くなった。
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