ボーバサンからの行軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 04:50 UTC 版)
「グランプレの戦い」の記事における「ボーバサンからの行軍」の解説
カナダのフランス軍の部隊は、病人が多く出て弱体化していた。その前年のノバスコシアでの活動が、過酷なものだったせいであった。ラムザイも同様で、そのためアカイギリス軍攻撃の指揮は、クーロン・ド・ヴィリエにゆだねられた。この戦闘に従軍したチャールズ・モリスは、フランス系カナダ人とインディアンの多くはジステンパーに感染しており、これはダンヴィユ公爵遠征時の水夫や兵士の病気とも関連があると、数回にわたり言及している。 1747年1月21日、フランス軍はミナスへの3週間に及ぶ行軍を開始した。兵たちはかんじきをはき、そりを使って、ヴェルト湾(Baie Verte)を横切り、ノーザンバーランドの海岸からタタマガッチへの道をたどって、コベキド山脈をコベキド湾(現在のトゥルロ近く)へ抜け、2月2日までにシュベナカディ川に着いた。しかし川は結氷していて、主力部隊が渡るにはかなり危険であることに兵士たちは気付いた。主力部隊は川の東側を行軍して、ボワシェベールと10人の兵の先導で、結氷したシュベナカディ川を渡り、川の西側に着いた。そして2月7日にケネトクック川へと向かい、アカディア人集落のピジキ(ウィンザー)へ行った。その後20マイル(約32キロ)の道を行軍したフランス軍は、イギリス軍が冬の宿営地としているガスペローに到着した。 この行軍の間、カナダ軍はアカディア民兵やミクマク兵の援軍と合流した。さらに、地元のアカディア人の家で分宿している時にも援助を受けることになった。アカディア人たちは、ニューイングランド軍がどういう状況であるのかを教えてくれたのだ。彼らは、アカディアの住民ではあるが、味方ではなかったのに敵軍の情報をくれたのである。一方、悪意のあるアカディア人たちが、自分たちのことをイギリス軍に密告しないよう警戒したヴィリエは、コベキド(トゥルロ)で、連絡を絶つために、峠を封鎖するように命じた。
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