イギリス支配期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/08 06:30 UTC 版)
イギリス東インド会社は、初期のインド進出にあたり、カルカッタ(現コルカタ)、スルターニー、ゴヴィンドプールの3村のザミーンダールとなることで足掛かりを作った。後には24か所のパルガナーを獲得し、1756年にはベンガル、ビハール、オリッサを支配下に置いた。1857年には、東インド会社に代わるイギリス本国からの統治体制が成立した。 ムガル帝国期のザミーンダールは土地の所有権を持たず、もっぱら戦争への参陣や近隣の王国への略奪遠征で収入を得ていた。そのため、彼らは自分の管轄する土地を発展させようとしなかった。この状況を理解していたコーンウォリス卿率いる東インド会社は、1793年にザミーンダールたちと永久協定を結び、彼らに土地所有権を認めた上で毎年定額の賃料を納めさせた。これにより、現在知られている新しい形のザミーンダーリー制度が成立した。1857年以降、大部分のザミーンダールの軍事力は解体され、領内の警察(digwari/kotwali)を担う戦力のみ維持することを認められた。もしザミーンダールが日没までに賃料を納めることができなければ、領地は没収され競売にかけられた。こうして、新しいザミーンダール階級が形成された。他の遅い時期に東インド会社の支配下に入った地域では、それぞれの首長に対して異なる統治体制を適用した。 イギリスの植民地当局は、北インドにおいてはおおむね従来のザミーンダールによる徴税システムを温存した。ムガル帝国と異なり彼らに土地所有者となることを認め、見返りとして徴税を担当させたのである。南インドではザミーンダールはいないわけではないが少数だったため、イギリス当局はライーヤトワーリー (耕作者)制度を用いた。これは一部の農民を選んで土地所有を認め、直接納税させるというものであった。 ベンガルのザミーンダールは同地の発展において影響力を発し、1857年のインド大反乱では重要な役割を果たした。 またイギリス当局は、忠実なザミーンダーリーに王族や貴族の称号を与える伝統も踏襲した。ラージャ、マハーラージャ、ラーイ・サヘブ、ラーイ・バハードゥル、ラーオ、ナワーブ、ハーン・バハードゥルといった称号が、幾度にもわたり藩王やザミーンダールたちに与えられていった。インド帝国地名辞典(英語版)の推計によれば、ラージャやマハーラージャといった王号を持つ領主が2000人ほどおり、その中には藩王国や巨大な所領を有する領主も含まれている。他の貴族称号を持つザミーンダールあるいはジャーギールダールも含めれば、その数はさらに跳ね上がる。
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