イギリス支配の中心都市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 03:00 UTC 版)
ベンガルの徴税権が東インド会社のものとなると、ベンガル地方はイギリスによるインド植民地化の拠点となった。1773年、イギリス首相フレデリック・ノースがインド規制法を成立させ、新設されたベンガル総督が東インド会社のすべての土地を運営することとなったため、コルカタはベンガルのみならず英領インド全体の政治的中心となった。1756年に落城した経験から、ウィリアム要塞はそれまでのダルハウジー広場の西側から南の現在地へと拡張移転され、1758年から15年の年月をかけて完成した。見通しをよくするために周囲には広大なオープンスペースが設けられた。これが現在のモイダン公園となった。東インド会社の支配権がインド全域へと拡大していくに伴い、コルカタは全インドの政治の中枢機能を持つようになった。この時期のコルカタは、北の旧スターナティー村を領域とするインド人街(ブラック・タウン)と、南の旧カーリカタ村および旧ゴーヴィンドプル村を領域とするイギリス人街(ホワイト・タウン)とに大きく2分されていた。 1820年代にはイギリスとインドを結ぶ定期蒸気船航路の開設をめぐってボンベイと激しく争ったものの、喜望峰回りを推したカルカッタ財界は時間的・経済的に大きく上回るスエズ地峡ルートを推したボンベイ財界に敗れ、以後ヨーロッパとインドの窓口はボンベイが中心となり、カルカッタはブリティッシュ・インディア汽船会社が運航するインド沿岸航路などの拠点となっていった。1847年には、名所の一つであるセント・ポール大聖堂が建設されている。 1857年にはカルカッタ大学が設立され、同年西のダモダル炭田とハウラー駅の間にカルカッタ初の鉄道が開通した。この年は西のデリー周辺でインド大反乱が勃発していた時期にあたるが、カルカッタは平静を保っていた。しかしこの大反乱の結果、イギリス東インド会社のインド統治権は取り上げられ、1858年に東インド会社の統治区域はイギリス直轄植民地となった。植民地のトップは副王(インド総督)であり、カルカッタには総督が居住しインド植民地の首都となり、1877年にイギリス領インド帝国が成立するとカルカッタは引き続きその都となった。インドの行政中心となったカルカッタにおいては、居住する大地主や下級官僚などの知識階級が成長し、彼らを担い手としてベンガル文化復興の流れが生まれ、ベンガル・ルネッサンスとも称される文化の黄金期を迎えた。この流れの中で、アジア初のノーベル文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴールなど多くの文化人をカルカッタは輩出した。この時期にはインドのイギリス支配の中心都市として、1905年に建設が開始され1921年に完成したヴィクトリア記念堂など多くの建物が建設され、一部は現在でも使用され貴重な文化遺産となっている。また、ジュートや綿花の輸出が盛んとなり、これらの集散地となったカルカッタは経済的にも繁栄した。また、綿花やジュートをもとにした繊維工業もこのころから盛んとなった。1910年代に入ると、ビハール州やオリッサ州で鉄鉱山などの金属資源が発見され、これをもとに市の南部などにおいて金属・機械工業も立地するようになった。 しかし、こうした文化の興隆はやがて民族運動と結びつき、反英運動が盛んとなっていった。この動きを牽制するために1905年にはベンガル分割令が発布されベンガルはイスラム教徒とヒンドゥー教徒の地域に大まかに分割されることとなったが、この法令は強い反発を巻き起こし、1906年にはインド国民会議コルカタ大会で反英姿勢はさらに強まった。この動きを見たイギリス政府は分割令を撤回したものの、反英運動の強いカルカッタを嫌って、1911年に都はデリーへと移された。しかし、その後もカルカッタは反英運動の一中心であり続け、日本に亡命したスバス・チャンドラ・ボースやラース・ビハーリー・ボースなど、ガーンディーとは異なる武装闘争を標榜する独立運動家を多数輩出した。BOSEの創始者であるアマー・G・ボーズの父であるノニ・ゴパル・ボースも当地から亡命した独立運動家である。第二次大戦中は、1942年から1944年にかけて市街と港が日本軍によって数回爆撃された(カルカッタ爆撃)。
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