イギリス支配とアカディア人追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 03:45 UTC 版)
「ボーセジュール砦の戦い」の記事における「イギリス支配とアカディア人追放」の解説
「アカディア」も参照 イギリスの勝利と、フランスの駐屯兵の降伏とで、アカディアから大勢のフランス兵が移動し、奥地をイギリスに明け渡した。それは、ここに住むアカディア人に、悲劇に追い込むことになった。フランス語をしゃべるアカディア人の一部は、砦をめぐるフランスとイギリスの抗争には、中立を誓っていたが、アカディア人がこの誓いを破って参戦したことは、ハリファクスのイギリス人士官には受け入れがたいものであり、ノバスコシア総督のチャールズ・ローレンスは、ボーセジュールでの、このアカディア人の規則違反を理由に、アカディア人の追放を命じた。モンクトンと遠征軍とにより、この命令は実行に移され、多くのアカディア人が、土地や財産を没収された 追放により、現在のカナダ大西洋岸から、アメリカ合衆国までの地域のアカディア人の入植地が、同じ方針を取った。アカディア人は13植民地やヌーベルフランスに離散し、アカディアン(アカディア人)という単語は、後に、ルイジアナで訛り、ケイジャンという単語となった。 ボーセジュール砦は、カンバーランド砦と名を改められた。後のアメリカ独立戦争中に、植民地軍の攻撃を受けたが、撃退した。この砦は1835年までイギリスの管轄下に置かれていた。
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