建設からデリー・スルターン朝とは? わかりやすく解説

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建設からデリー・スルターン朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 06:57 UTC 版)

デリー」の記事における「建設からデリー・スルターン朝」の解説

デリー12世紀以降王朝首都がおかれてきたが、その位置王朝によって異なる。おおまかに東をヤムナー川、西を岩石丘陵地、南を点在する丘陵囲まれ三角形地域デリー三角地)に、各王朝それぞれ王都建設したからである。現在のオールド・デリームガル帝国中期建設され市街地である。 チャウハーン朝のプリトヴィーラージ3世によってこの地に最初に都市つくられたのは12世紀である。当時デリーデリー三角地南西端にあたるラール・コートであったデリーはプリトヴィーラージ3世時代繁栄迎えるも、1192年にはゴール朝将軍であったクトゥブッディーン・アイバク率いイスラム教徒征服され、プリトヴィーラージは死亡して以後デリー800年以上にわたるイスラーム支配のもとにおかれることとなったアイバク征服したデリー北インドにおける拠点位置づけ、ラール・コートの跡にクトゥブ・ミナール建設をおこなうなど市内整備行った1206年ゴール朝君主であるシハーブッディーン・ムハンマド死去し後継者争いによってゴール朝解体に向かうとアイバク奴隷王朝建国して独立し以後1290年までの奴隷王朝ハルジー朝1290年 - 1320年)、トゥグルク朝1320年-1414年)、サイイド朝1414年 - 1451年)、ローディー朝1451年 - 1526年)と、1526年までの間デリー首都置いた5つ王朝相次いで興亡繰り返した。この5王朝は、総称してデリー・スルターン朝呼ばれる。この時代1398年にはティムール帝国ティムールによって征服破壊されるなどしたものの、デリーには常に首都がおかれ、北インド要衝として発展したまた、これらの王朝はすべてイスラーム王朝であり、のちのムガル帝国期含めてデリーインドにおけるムスリム文化の中心地として重きをなした。 奴隷王朝期に首都はラール・コートにおかれていたものの、ハルジー朝アラー・ウッディーン・ハルジー1303年にラール・コートの北東にあたるシーリー新たに城塞都市建設し、ここを根拠地とした。しかしハルジー朝間もなく滅亡し、これを継いだトゥグルク朝ギヤースッディーン・トゥグルク1321年、ラール・コートの東、シーリー南東にトゥグルカーバードという新城都市建設してここを根拠地とした。その息子ムハンマド・ビン・トゥグルク1327年にラール・コートとシーリーをつなぐ大城都市の建設企図し、ここをジャハーン・パナーと名づけたものの、経済混乱によって計画未完終わったムハンマドの跡を継いだフィールーズ・シャー・トゥグルクは、それまで城塞都市デリー三角地南端集中していたのに対し三角地北端に近い現在のオールドデリーからニューデリー付近に1354年新城都市築き、これをフィールーザーバードと称したこのように各地点々建設された各城塞都市存在しその間農村荒野、その他さまざまな建造物点在するというのがデリー・スルターン朝時代デリー様相であった

※この「建設からデリー・スルターン朝」の解説は、「デリー」の解説の一部です。
「建設からデリー・スルターン朝」を含む「デリー」の記事については、「デリー」の概要を参照ください。

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