建設から開通まで
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1962年(昭和37年)11月5日に京阪丸を建設予定地に停留させ、船上で起工式が行われた。その後、1964年東京オリンピックに間に合うよう約2年で完成させる目標が建てられ、建設工事が急ピッチで進められた。 1962年(昭和37年)12月に建設資材を搬入するための工事用道路として堅田側の取付道路から工事が始まった。地質は地下水位が高く含水量が多いので、粘性土のかく乱を避けつつも路盤に適した道路用の砂質性土砂を転圧しつつ5 mの高さまで盛土した。堅田側では道路用として取得された土地は最低限であったため、擁壁を用いて土留めを実施した。取付道路により遮断された農道や水道に対してはコルゲートパイプを設けた。守山側は堅田側に準じて取付道路の建設が行われたが、圧密沈下が想定されたため路体の早期築造によって促進を行った。 取付道路の施工開始から同時期に杭打台船が建設予定地の湖上に到着し、基礎杭設置の準備が完了した。1963年(昭和38年)2月には工事測量を湖上にある架橋予定地点で実施した。その直後に大径鋼管杭の第1号が現場に搬入され、準備が整い次第すぐに打ち込みが開始された。1963年(昭和38年)の春から夏の間に杭が打ち込まれ、次第に橋脚の建設も始まった。この工事によって日本で最初の大口径鋼管杭を打ち込むため、世界で初めての振動式杭打機を用いた工法を採用した。ハンマーを用いた従来工法では振動や騒音が大きく、杭の損傷が大きくなる欠点があった。橋脚は軟弱な地盤の上に設置するため重量を軽くする必要があり、形状は上部構造とのバランスを考慮してラーメン形式・壁式・杭ラーメン式が採用された。ラーメン形式のものには耐震と景観により隔壁を設けた。水中施工は大きな費用を要するので、それを避けるため水中ではなく大径鋼管杭の上に鉄筋コンクリートでフーチングを設けた。さらに船舶との衝突などで杭基礎が損傷しないよう、フーチング部の周辺にはPC板を設けた。下部工で出動した船舶は、杭打台船1隻、クレーン船3隻、コンクリート注入船1隻、資材搬入船1隻、曳航船2隻であり、あたかも海戦を彷彿とさせる工事現場だったという。 1963年9月からは当初の工程通りに上部構造の設置段階に入った。合成桁の設置にあたってはクレーン船に加え、ケーブルクレーンが用いられた。仮組検査が最初に終了した第1号の合成桁が搬入されたのは同年10月6日で、12月5日から架設が開始された。この年内には橋桁9基の架設が終わり、当初の予定通りに工程が進んだ。年が明けた1964年(昭和39年)には高張力ボルトの締付、架設用鉄塔の設置、ケーブルの緊張作業が行われるが、その間に三径間連続鋼床版箱桁の側径間が工場で製作が進められていた。仮組が3月26日、搬入が4月9日に行われ、堅田側、守山側に順番に架設が行われた。施工中の6月2日には高松宮宣仁親王と宣仁親王妃喜久子が視察に訪問された。続いて、延長140 mの三径間連続鋼床版箱桁の中央径間が製作・仮組・動的試験が進んで6月16日に搬入された。6月21日から7月7日にかけて架設が行われ、7月9日に高張力ボルトの締付が完了した。 1963年7月15日に最後の合成桁の架設がすべて完了し、堅田と守山の間が連結された。その後、供用開始までの約2ヶ月で床板・高欄・舗装・塗装などの工事が突貫で行われた。高欄の設置にあたっては特殊な曲線をした形状であり、設置時は特注の器具が用いられた。鋼床版の上の舗装は転圧を必要としないが舗設温度が200℃ - 270℃と高温で、アスファルトとフィラーを多く使用する代わりに砂が少ないグースアスファルト舗装が採用された。舗装に先立ってゴム混じりのアスファルトを塗布することで防水性や付着性の向上を図った。合成桁の上の舗装は他の橋梁でも採用されていた下層が密粒式アスファルト、修正トペカを表層とする2層式が用いられた。取付道路では特に守山側の圧密沈下の懸念があり、道路用メッシュ入りコンクリート床版を敷いたうえでソイルセメントを打設して基層とした。 開通式は1964年(昭和39年)9月27日に行われ、翌日の9月28日0時に供用が開始された。同日に国道8号から琵琶湖大橋の取付道路も開通した。当時は日本最長の有料橋であり、径間距離も安治川大橋(国道43号)をしのいで日本一であった。 開通当初、料金所は堅田側の国道161号から340 mの部分と守山側の橋台から114 mの位置に設置された。堅田側の料金所は運転者が圧迫感を感じないためゆるやかなカーブをつけた構造だった。守山側の料金所は鉄骨構造で近代的な軽快さを持たせ、コバルトブルーとホワイトカラーによる色調で道路や橋梁との調和を図った。堅田側の料金所に併設して管理事務所が設けられ、琵琶湖大橋の状況を把握できるように事務所全面はガラス張りとした。 堅田側には駐車場が設けられ、当初はバス40台・乗用車180台の駐車場が設けられた。休憩施設(現在の道の駅びわ湖大橋米プラザ)は民間会社による経営によるレストハウス・売店と県営の有料休憩所が設置された。また、将来的にはプールの併設も予定されていた。そして、湖上を遊覧する船舶や遊覧ボートのための桟橋が設置された。
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