建設から鋳造の中断まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 14:35 UTC 版)
「那珂湊反射炉」の記事における「建設から鋳造の中断まで」の解説
第一炉の煙突が折れて以降、反射炉での大砲鋳造は滞り、藩の軍事訓練場である神勢館(現・水戸市若宮二丁目)に設置された大砲製造所で銅製大砲を鋳造していた。この件に竹下清右衛門は「あてつけがましい」、「鉄山を開く資金に使うべき」と怒りをあらわにした。 1つの炉では大型の大砲を鋳造することが不可能であるため、第二炉の建設が計画されたが、資金調達に苦労し、安政4年2月(1857年2月 - 3月)に斉昭から内帑金(ないどきん)が下賜されて基礎工事が始まった。12月晦日(1858年2月13日)に漆喰を塗り上げて完成し、安政5年1月14日(2月27日)に火入れを行った。第二炉は第一炉と同型ながら、火回りを改良したもので、第一炉の東に置かれた。2つの炉の建設に使用された煉瓦は4万枚に及んだ。 2月11日(3月25日)にモルチール砲3門を同時に、3月16日(4月29日)にはカノン砲1門を鋳込み、3月19日(5月2日)にこれらを柳沢の水車場へ運び、中をくり抜く作業を行った。これまでの原料はたたら製鉄による砂鉄銑であったが、4月27日(6月8日)に大島高任が釜石の大橋高炉で製造に成功した高炉銑鉄(柔鉄)が那珂湊に届き、5月23日(7月3日)より大砲の鋳造が始まった。7月6日(8月14日)、高炉銑鉄を使った大砲鋳造の成功と反射炉事業の前途を祝して酒宴が開かれた。しかしその宴席に斉昭の謹慎処分の報が届き、宴は直ちに散会し、反射炉の稼働もしばし中断となった。 安政6年1月(1859年2月 - 3月)、熊田嘉膳・大島高任・竹下清右衛門の3人がそれぞれ帰藩した。3人は技術者として水戸藩に招かれたにもかかわらず、斉昭は洋学(蘭学)を軽視・蔑視していたため、終始冷遇された。また3人の役割分担を明確にせず、全員を対等な立場で招いたため、指揮命令系統が混乱した上、性格の違う3人は反目し合い、藩と3人の間の関係を取り持った佐久間貞介が書き残した『反射炉製造秘記』には、その苦労が窺える記述がある。大島らは第十炉まで建設する目標を持っていたが、実現したのは第二炉までであった。
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