建設、1896年 - 1900年
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「セントラル・ロンドン鉄道」の記事における「建設、1896年 - 1900年」の解説
鉄道の設計には、技術者のジェームズ・グレートヘッド、ジョン・ファウラー、ベンジャミン・ベーカー(英語版)を雇った。グレートヘッドはタワー地下道(英語版)やシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道においても技術者を務めており、これらの会社でテムズ川の下にトンネルを掘る際に用いたシールド工法を開発した。ファウラーは、1863年に世界で初めて地下鉄として開業したメトロポリタン鉄道の技術者であり、ベーカーはニューヨークの高架鉄道やフォース鉄道橋でファウラーと共に働いていた。グレートヘッドは着工後まもなく亡くなり、シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道において彼の助手を務めていたバシル・モット(英語版)が代わりとなった。 この種の立法の通例として、1891年の法律では土地収用による土地買収と資金の調達に期限を設定していた。建設完了期限として当初指定されていたのは1896年末であったが、資金調達と駅舎の用地の買収に時間がかかった結果、1896年初めにようやく建設に取り掛かることができた。時間の余裕を得るため、1894年セントラル・ロンドン鉄道法により1899年までの完成期限延長許可を得た。建設工事はETCLによって3つに分割されてさらに請負に出された。シェパーズ・ブッシュ - マーブル・アーチ間、マーブル・アーチ - セント・マーティンズ・ル・グランド間、セント・マーティンズ・ル・グランド - バンク間である。工事はまず1896年4月にチャンスリー・レーンでの建物取り壊しから始められ、建設用の立坑が1896年8月と9月にチャンスリー・レーン、シェパーズ・ブッシュ、スタンホープ・テラス、ブルームズベリーで着手された。 リバプール・ストリート駅の下でのトンネル建設工事に関するグレート・イースタン鉄道との交渉は不調に終わり、バンク駅より先の最後の区間は単に短い側線として建設された。地盤沈下の危険を最小限にするため、トンネルの経路は道路の下に沿うようにされ、建物の下の通過は避けるようにした。通常はトンネルは横に2本並べる形で、地面の下60 - 100フィート(約18 - 34メートル)のところに掘られたが、道路の幅が狭くてトンネルを横に並べることができない場所では、縦に2本並べるようにされ、このために多くの駅で双方向のプラットホームが異なる階になった。駅に到着する列車の減速と、駅を出発する列車の加速に有利なように、駅は勾配の頂点となるように設計された。 トンネル工事は1898年末までに完了し、鋳鉄製のセグメントリングに対してコンクリートの内巻を行う予定であったのが省略されたため、トンネル内径はおおむね11フィート8.25インチ(約3.56メートル)となった。バンク駅では、セントラル・ロンドン鉄道はシティ・オブ・ロンドン自治体と交渉し、スレッドニードル通りとコーンヒルの交差点の下に鋼製の枠組みを造ってその中に券売所を設置する許可を求めた。このために、券売所と表の通りを結ぶ地下道の下に配管やケーブル類をダクトに入れて迂回させなければならなかった。この工事の遅れはとても高くつき、会社は倒産寸前に追い込まれた。1899年セントラル・ロンドン鉄道法により、期限はさらに1900年に延長された。 駅がすべて地下に建設されたバンク駅以外では、すべての駅にハリー・メジャーズ(英語版)設計の駅舎が建てられた。駅舎は1階建てで、将来的に上を商業用に開発できるようになっており、ベージュのテラコッタで覆われた正面となっていた。各駅にはニューヨークのフランク・スプレイグの会社で製作されたエレベーターを備えていた。このエレベーターは、各駅の旅客流動に合わせて様々な大きさや配置で納入された。一般に同じシャフトで2つから3つのかごが運転されていた。駅部のトンネルの壁は白いセラミックタイルで仕上げられ、アーク灯で照明されていた。列車の走行用電力と駅の消費電力は、ウッド・レーンに設けられた発電所から交流5,000ボルトで供給され、沿線に設けられた変電所で直流550ボルトに変換されて第三軌条方式で給電された。
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