建設 1902年 – 1907年
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「チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道」の記事における「建設 1902年 – 1907年」の解説
ロンドン地下電気鉄道から資金提供を受け、路線案も固まったことを受け、1902年7月にチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道は用地にある建物の解体などの建設準備に入った。1902年11月21日、チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道は駅建設用地の追加収用、エッジウェア・アンド・ハムステッド鉄道の吸収、認可されたものの建設意義が低いと考えられていたケニッシュ・タウンからハイゲート・ロード車両基地への区間の建設取りやめを議会に提案、1903年チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道法として1903年7月21日に国王裁可を得た。 1903年9月に直径およそ11フィート8インチ (3.56 m)のトンネル2本を並行させる方式でトンネル掘削を開始、駅舎の地上構造物は建築家レスリー・グリーンが設計した、ロンドン地下電気鉄道標準設計のものが採用された。駅舎は鉄骨2階建てで、赤い釉薬をかけたテラコッタ(英語版)ブロックで表面が飾られるとともに、大きな半円形の窓が上階に設けられた。各駅には駅舎とホームを結ぶ2から4基のエレベーターと非常用螺旋階段が設けられた。 建設工事と並行して、チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道はトテナム・コート・ロードに駅を建設するための用地買収個別的法律案及びモーニントン・クレセントへの駅建設とチャリング・クロス終点の計画を変更、本線鉄道のチャリング・クロス駅前を掘削して地下鉄駅を建設する個別的法律案を議会に提出し、前者は1904年7月22日に1904年チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道法として、後者は1905年8月4日に1904年チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道法として認可を得た。 1904年にハムステッド・ヒース延伸線の建設推進のため、ノース・エンドの住宅用地を自然保護運動家(英語版)に売却したため、ノース・エンドに計画していた駅の利用客数が大幅に減少することが確実となった。ノース・エンド駅の建設はペースを落としながらも続けられ、駅ホーム、旅客通路などの掘削が行われたが、エレベーター、非常階段用の竪穴掘削及び駅舎建設工事が始まる前の1906年に駅建設が中止された。 1905年12月にチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道のトンネル工事は完了し、引き続き駅施設の建設、レール敷設、信号設備の工事が行われた。1846年軌間統一法後の建設であり、標準軌が採用されている。チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道はロンドン地下電気鉄道の傘下にあったため、同じくロンドン地下電気鉄道の傘下にあったメトロポリタン・ディストリクト鉄道用に建設されたロッツ・ロード発電所(英語版)から電力供給を受けるよう計画が変更され、チョーク・ファームへの発電所建設は行われなかった。電化方式はロンドン地下電気鉄道傘下の各社同様、2本の走行用軌道の中央にマイナス210 V、走行用軌道の外側にプラス 420 Vを印加する4線軌条式、直流630 Vが採用された。チャリング・クロスとエンバンクメントの間の路線は建設されず、チャリング・クロスが南側の終点となり、試運転ののち1907年の開業を迎えた。
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